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◎昨日の遭難者追悼會

掲載年月日:1910/10/25(火) 明治43年
メディア:琉球新報社 1面 種別:記事

原文表記

◎昨日の遭難追悼會
汽船三浦丸覆沒遭難死者數十名に對する追悼の法會は昨日船主古賀辰四郞氏祭主となりて最も盛大に行われたり塲所は區内西眞敎寺本堂に於て首里那覇の諸宗の僧侶十名を招き莊嚴なる讀經の式あり右終はりて祭主古賀氏の祭文朗讀ありき左の如し
時維れ明治四十三年十月二十四日沈沒汽船三浦丸船主古賀辰太郎遭難三十有餘諸氏の英靈を祭り謹て哀悼の意を表す當時暴風奄に至り救護道なく遂に諸氏をして命を海濤に附せしむ予偶々船主の緣に繋がり悲慘なる諸氏の此の最後に接し哀悼眞に堪ふべからず、今日恰も遭難二十七日に相當す縣下の諸山名僧知識を招し赤心を布き供養を行ひ以て諸氏の冥福を祈る希くは饗せよ謹て白す
襲し縣知事日比重明熱誠を込めたる長篇の弔辭朗讀■燒香頂禮を爲したるが滿塲感に打たれて見へたりき次ぎに那覇區長喜入休氏の燒香あり弔辭の朗讀ありて後沖繩新聞主筆佐々木受郞氏は沈痛を極めたる態度同情ある音聲を以て仝しく弔辭を朗讀し滿堂益々感に入るの時本社の主筆宮田氏は左の一文を朗談したり
明治四十三年十月二十四日琉球新報記者宮田倉太謹で滊船三浦丸覆沒遭難死者三十餘名の英靈に白す
謹て惟みれば本月十日諸氏の乗船三浦丸が名護を發し那覇港口に達し翌日午後八時過■顚覆したる迄の間大凡二十有七八時間を費せり當時風伯雨師の激怒を極め狂爛逆に立ちて舟、人共に近くべからず、空しく這の遭難を視ぬ、今にして而て之を顧ふ陸上の救護遂に到らず船體波浪に弄るゝの時身を諸氏の境遇に置き瞑想し來らば涕涙滂沱たるものなくんば非ず、予不敏敢て縣下操觗の業に從ひ今回諸氏の遭難に接■狀况を見聞し聊か得所なきにあらず察するに本縣は海洋の中にあり水難度々起るべくして未だ甞て大事なし一朝諸氏の不幸に際してや救護の心ありて其の道甚だ備はらず遂に此の慘劇をして恣まゝならしめたるものゝ如し豈に傷まざるべけんや今茲遭難二七日に相當す船主古賀辰四郞匇惶事業地より馳せ歸り數千金の弔慰を行ひ諸氏の遺族■悲歎の裡に慰め且つ法■を營み其の冥福を祈る亦だ倒れりと謂ふべし此の日來り會するもの本縣知名の紳士堂内に充溢するの盛觀を呈せる蓋し哀悼の眞情自から制し得ざるが爲ならざらんや希くは以て瞑し英魂永く止まり那覇の港頭、水難鎭護に任ずるあらんことを頓首々々謹て弔す
右終はりて大阪商船會社沖繩支店長續眞氏は肅々として起も是れ又た長篇の弔辭を朗讀し滿塲水を打ちたる如し感念沸々として湧き出でぬ斯くて一般來會者の燒香あり古賀氏の挨拶にて閉會せり當日遭難者の遺族數十名來會し堂の特別席に座し靜に讀經の聲に諦聽し今昔の回願に暮れ或いは歔欷するもあり來會者の同情に堪ざる所なりしが別けて祭主たる古賀氏が熱誠を込め開式の挨拶をなしたる簡短にして沈痛なる祭文を朗讀したる遺族と來會者との深く感じ入りたる樣に見受けたり因に記す此の日佛壇には沖繩毎日新聞社沖繩警備隊司令長官野嶋貫一氏其の他の知名の人々より菓子其の他の供へ物あり式塲はいどゝ嚴■莊重見へたるが來會者の重なるもの前記の日比知事を始めとし、尙候爵家よりは伊是名朝睦氏、警備隊司令長官野島貫一氏、和田警察部長、岸本事務官、永田内務部長、五味事務官補、武石警視、喜入區長、知花首里區長、各銀行會社の頭取、社長及び重役、辨護士、新聞記者、各中等學校長其の他首里那覇の交際社會の有力者知名人の人々を網羅し皆熱心に禮拜したる有樣を見ては遭難死者の靈も爲めに瞑し佛果を得たるべしと想はれき祭主たる古賀氏の此の法會に於ける義心は素より云ふ迄もなし遺族の滿足は嘸かしところ見受けたり縣下又た此の盛儀に對し同情の外あるべからずべし併せて記すると云ふ

現代仮名遣い表記

◎昨日の遭難追悼会
汽船三浦丸覆没遭難死者数十名に封する追悼の法会は、昨日船主古賀辰四朗氏祭主となりて、最も盛大に行われたり。場所は区内西真教寺本堂に於て、首里那覇の諸宗の僧侶十名を招き、壮厳なる読経の式あり。右終はりて祭主古賀氏の、祭文朗読ありき左の如し。
時維れ明治四十三年十月二十四日、沈没汽船三浦丸、船主古賀辰太郎遭難三十余諸氏の英霊を祭り謹て哀悼の意を表す。当時風奄に至り、救護道なく遂に諸氏をして、命を海濤に附せしむ予偶々船主の縁に繋がり、悲惨なる諸氏の此の最後に接し、哀悼真に堪うべからず。今日恰も遭難二十七日に相当す。県下の諸山名僧知識を招し、赤心を布き供養を行い以て、諸氏の冥福を祈る。希くは饗せよ謹て白す。
襲し県知事、日比重明熱誠を込めたる長編の弔辞朗読■焼香頂礼を為したるが、満場、感打たれて見えたりき。次に那覇区長喜入休氏の焼香あり弔辞の朗読ありて後、沖縄新聞主筆佐々木受郎氏は、沈痛を極めたる態度同情ある音声を以って、同しく弔辞を朗読し満堂益々感に入るの時、本社の主筆宮田氏は左の一文を朗談したり。
明治四十三年十月二十四日、琉球新報記者宮田倉太謹で汽船三浦丸覆没遭難死者三十余名の英霊に白す。
謹て惟みれば、本月十日諸氏の乗船三浦丸が名護を発し那覇港口に達し、翌日午後八時過■転覆したる迄の間、大凡二十有七八時間を費やせり。当時風伯雨師の激怒を極め、狂乱逆に立ちて舟、人共に近くべからず。空しく這の遭難を視ぬ。今にして而て之を願う。陸上の救護遂に到らず、船体波浪に弄るるの時身を諸氏の境遇に置き、瞑想し来らば涕涙滂沱たるものなくんば非ず。予不敏敢て県下操觗の業に従い、今回諸氏の遭難に接■状況を見聞し聊か得所なきにあらず。察するに本県は海洋の中にあり、水難度々起るべくして未だ甞て大事なし。一朝諸氏の不幸に際してや、救護の心ありて、其の道甚だ備はらず。遂に此の惨劇をして恣ままならしめたるものの如し。豈に傷まざるべけんや、今茲遭難二七日に相当す。船主古賀辰四朗匇煌事業地より馳せ帰り数千金の弔慰を行い、諸氏の遺族■悲歎の裡に慰め且つ、法■を営み、其の冥福を祈る。亦た倒れりと謂ふべし、此の日来り会するもの本県知名の紳士堂内に充溢するの盛観を呈せる蓋し哀悼の真情自から制し得ざるが為ならざらんや希くは以て瞑し英魂永く止まり那覇の港頭、水難鎮護に任ずるあらんことを頓首々々謹て弔す。
右終はりて、大阪商船会社沖縄支店続真氏は粛々として起も是れ又た長編の弔辞を朗読し、満場水を打ちたる如し。感念沸々として、湧き出でぬ斯くて一般来会社の焼香あり。古賀氏の挨拶にて閉会せり。当日、遭難者の遺族数十名来会し、堂の特別席に座し静に読経の声に諦聴し、今昔の回願に暮れ或いは歔欷するもあり。来会者の同情に堪ざる所なりしが、別けて祭主たる古賀氏が熱誠を込め、開式の挨拶をなしたる。簡短にして沈痛なる祭文を朗読したる遺族と、来会者との深く感じ入りたる様に見受けたり因に記する。此の日仏壇には、沖縄毎日新聞社、沖縄警備隊司令長官野嶋貫一氏、其の他の知名の人々より、菓子其の他の供へ物あり。式場いどいど厳■荘重見へたるが来会者の重なるもの、前記の日比知事を始めとし、尚候爵家よりは、伊是名朝睦氏、警備隊司令官野島貫一氏、和田警察部長、岸本事務官、永田内務部長、五味事務官補、武石警視、喜入部長、知花首里区長、各銀行会社の頭取、社長及び重役、弁護士、新聞記者、各中等学校長其の他、首里那覇の交際会社の有力者知名人の人々を、網羅■皆熱心に礼拝したる有様を見ては、遭難死者の霊も為めに瞑■仏果を得たるべしと想はれき、祭主たる古賀氏の此の法曹に於ける。義心は素より伝う迄もなし。遺族の満足は嘸かしところ見受けたり、県下又た此の盛儀に対し、同情の外あるべからずべし、併せて記すると云う。