キーワード検索

◎從容死に臨む

掲載年月日:1910/10/15(土) 明治43年
メディア:琉球新報社 4面 種別:記事

原文表記

◎從容死に臨む
平良 仲宗根 宮城
三氏の態度
吾人が遭難者の一人より聞き得たる所に依れば平良保一、仲宗根忠次郞、宮城久保の三氏の舩中に於ける擧號は何れも沈着にして脚が狼狽したる氣色なく狂欄怒濤の中に處して泰然たる態度は流石に修養ある紳士の心掛けとして左もある可しと首肯せらるゝ節々尠からず聞くが如くんば三氏は何れも特別待遇を受けて中等室にあり十日の晩より十一日の晩に至る一畫夜の間舩は三重城の北方に碇泊したるも暴風猛威を逞うして狂濤舩を洗ひ舩は絕へず非常的傾斜を爲して屢ば履らんとし乘客一同狂亂の姿ありしに拘らず三民は卓を圍んで酒を傾け快く献酬しつゝ「オイ君、迚ても助かんぜ」などゝ刻々迫まる悲慘の最後を知る■猶ほ不通の戲談の最後を知るゝ猶ほ普通の戯談の樣に言ひ倣して談笑湧くが樣なりしと云ふ就中平良氏最も船に强しと見へて時々インパネスを引つ掛けて甲板に現はれては欄に恁つて濁浪奔騰の狀を望見し、亦た入つては酒を傾け酒に飽けば横になつて携來の雜誌を播讀するなど殆のど一大慘事の身に迫るを知らざるものゝ如くなりしと云ふ三氏共に此の空前の大災難に遭遇しながら神色自若として聊かも其態度を乱さず相共に笑つて運命の惡手に投じたるは流石は丈夫の心掛けと云はざ■可らず只だ怨むらくは三氏共に死して歸らず一朝にして之等有爲の土と失ふに至る縣下の爲めに何人が無限の感慨なからん

現代仮名遣い表記

◎従容死に臨む
平良 仲宗根 宮城
三氏の態度
吾人が遭難者の一人より聞き得たる所に依れば、平良保一、仲宗根忠次郎、宮城久保の三氏の船中に於ける挙動は、何でも沈着にして脚が狼狽したる、気色なく狂欄怒濤の中に処して、泰然たる態度は流石に修養ある紳士の心掛けとして、左もある可しと首肯せらるる。節々尠からず聞くが如くんば。三氏は何でも特別待遇を受けて、中等室にあり、十日の晩より十一日の晩に至る、一昼夜の間船は三重城の北方に碇泊したるも、暴風猛威を逞うして狂濤船を洗い船は絶えず非常的傾斜を為して屢ば履らんとし、乗客一同狂乱の姿ありしに拘らず、三民は卓を囲んで酒を傾け快く献酬しつつ「おい君、迚ても助かんぜ」などなど、刻々迫まる悲惨の最後を知るる。猶お不通の戯談の最後を知る■。猶お普通の戯談の様に言い倣して、談笑湧くが様なりしと云う。就中平良氏最も船に強しと見えて、時々インパネスを引っ掛けて甲板に現はれては欄に恁って濁浪奔騰の状を望見し、亦た入っては酒を傾け、酒に飽けば横になって携来の雑誌を播読するなど、殆のど一大惨事の身に迫るを知らざるものの如くなりしと云う。三氏共に此の空前の大災難に遭遇しながら、神色自若として聊かも、其態度を乱さず相共に笑って運命の悪手に投じたるは、流石は丈夫の心掛けと云はざ■可らず。只だ怨むらくは、三氏共に死して帰らず。一朝にして之等有為の土と失うに至る。県下の為めに何人が無限の感慨なからん。