キーワード検索
◎嗚呼沖洲宮城君
原文表記
◎嗚呼沖洲宮城君 漏渓生
沖洲宮城君遂に逝矣、予一言の以て弔すゝなかるべけんや、蓋し君は予と宿交わるのみならず、我が琉球新報紙上亦素面の間柄にあらざればなり、君は君は縣下國頭郡大宜味の人、幼にして國頭農學校に入り、校長黒岩恒氏の薰陶を受け、卒業の後ち半時なく原稿を草し、切々平として紙上探錄の意を通したるはス既に四年以前のことに属す、當時文章生硬を免かれず、殊に德富穌峯先生の「東京だより」を愛読し、私かに模倣するものゝ如し、予態と顧みざるもの數廻、君か熱心は果して益々加はりぬ、回一回を加ふる毎に鍛錬の跡歴々として見るべく、苦心の業惨憺として察すべし、終に予をして探録せしめた■もの即ち、琉球紙上「國頭だより」、靑葉■の雅號を以てせるもの之れなりき、爾來君が勉強は熱度を增して豚々たる情緒、國頭郡内有らふる時事風物に参照し或は數久田の瀧の紹介となり、羽地田圃の稻穗の風のたよりとなり時かわり風景あり、一種韻致の文■■内■者の注目する所とはなれり、此の間社中同人「靑葉子の名を■り、君の誰れ人なるかを知るに至りて交情益々加はりぬ、一日君は予を訪ねし首里の僑后を叩けり、洋服姿の靑年、一見既に欽尙すべきものあり、■■之を久■、君は徐ろに前途の方針を告け、新聞記者となり縣下の時務に貢献せんと欲するの意を漏し予が意を徹せんが爲に來れりと云ふ、眞情流■落面目自から改たるものありて存せり然れども予は既に操弧觚者、境涯のの艱難多きを知る、時事の貢献は他道なきにあらず、懇々として之を諌めぬ、時に明治四十一年夏にも近かき頃なりを記憶す、斯くて仝年猛暑に際し、君は突然、國頭郡役所在所勤し辞し、貯蓄したる若干金を携へ、上京した以て新聞■の■習に着手するの決心を告け烈然として去り、東京專修學校に入り、■ら行政法の研究に■へり、■■■問絶へしことなく、時々「東京だより」となりて紙上に見みへたり、■くて明治四十二年の正月予は來琉似來初めて上京し、■町區飯街の旅館に宿し■■■■の運動を試みるに際してや、君は補助者として予が宿所に出入し閑暇談笑團を解いて■■り、間もなく■は東京某々新聞社中に入るの■■を捉へんとして未だ■さず、■や■■心を動かすに及べし、折しも縣下■■創設に際し、政論沸騰■、有爲の青年心■を■もするの際、君は遙かに■■に堪へずとし、■々書を裁して其の意を通し來れり、予疎■應酬甚だ■懃を■き、君が志望に■くの多大なるを知ると■も、心■かに君が他日の大成を祈るものありて存す、縣下の■争元と是れ■牛角上の喜劇に過ぎるの一■■を試み■に致しぬ、爾來再三回の■書交換を以て君か東部の生活は■■となり、君の才■は早くも君が先輩たる平良保一氏の■■に投じ縣下の同業沖繩毎日新聞社中の人となりしは、賨に昨年十二月のとに■ありき、以て三年の蓄積、新聞記者たるの意志を達するを得たるは■■とするに耐べけんも、面も其■■の表情他人未だ■て與り知り得ざるものならずんばあらせず、嗚呼君は不敏子の如を以て捨たりとせず、細々心を寄て新聞記者とならんと欲するの意を致しながらも遂に郷薫先輩の擢用を■つて始と泰示志を達するに及びぬ、人生の蓬■、因縁綯の如し、■糾紛錯、面かも累々として■め定むべからざるもの、夫れ其に■ひ知るべからずと■つべきか否耶、令茲明治四十三年十月君は其の志す所の時■■■旋せんが爲め、先輩平良君を擁して郷里に赴き、縣會議員補歓選挙に参興し、■大凡熟しで■途に在り船に三浦丸に搭して平良、仲宗根両氏の一行に加はり、仝月十日将さに那覇港口に入らんとし强風の爲めに覆没し、倶に此い災禍に遭へし、安う傷まざるべけんや、聞く君が此の災難に會して爲すべからずを知る船艙酒杯し取りて平良、仲宗根の先輩と相汲み談笑自若として風雨の猛けるを眺め居たりと、筆を載せては則ち操孤者として、交を結んでは即ち其先輩の■行として倶に難■殉す君が這■に殘したる勇壮堅志、自から後■を起すに足るものあらんとす、希くは瞑せよ
現代仮名遣い表記
◎嗚呼沖洲宮城君 漏渓生
沖洲宮城君遂に逝矣、予一言の以て弔すすなかるべけんや、蓋し君は予と宿交あるのみならず、我が琉球新報紙上亦素面の間柄にあらざればなり、君は県下国頭郡大宜味の人、幼にして国頭農学校に入り、校長黒岩恒氏の薰陶を受け、卒業の後ち半時なく原稿を草し、切々乎として紙上探録の意を通したるは既に四年以前のことに属す。当時、文章生硬を免かれず、殊に徳富穌峯先生の「東京だより」を愛読し、私かに模倣するものの如し。予態と顧みざるもの数廻、君が熱心は果して益々加わりぬ。回一回を加うる毎に鍛錬の跡歴々として見るべく、苦心の業惨憺として察すべし。終に予をして採録せしめた■もの即ち、琉球紙上「国頭だより」、青葉■の雅号を以てせるもの之れなりき。爾来君が勉強は熱度を増して脉々たる情緒、国頭郡内有らゆる時事風物に参照し、或は数久田の瀧の紹介となり、羽地田圃の稲穂の風のたよりとなり、時事あり風景あり一種韻致の文■■内■者の注目する所とはなれり。此の間、社中同人「青葉子の名を■り、君の誰れ人なるかを知るに至りて、交情愈々加はりぬ、一日君は予を訪ねし首里の◎嗚呼沖洲宮城君 漏渓生
沖洲宮城君遂に逝矣、予一言の以て弔すすなかるべけんや、蓋し君は予と宿交あるのみならず、我が琉球新報紙上亦素面の間柄にあらざればなり、君は県下国頭郡大宜味の人、幼にして国頭農学校に入り、校長黒岩恒氏の薰陶を受け、卒業の後ち半時なく原稿を草し、切々乎として紙上探録の意を通したるは既に四年以前のことに属す。当時、文章生硬を免かれず、殊に徳富穌峯先生の「東京だより」を愛読し、私かに模倣するものの如し。予態と顧みざるもの数廻、君が熱心は果して益々加わりぬ。回一回を加うる毎に鍛錬の跡歴々として見るべく、苦心の業惨憺として察すべし。終に予をして採録せしめた■もの即ち、琉球紙上「国頭だより」、青葉■の雅号を以てせるもの之れなりき。爾来君が勉強は熱度を増して脉々たる情緒、国頭郡内有らゆる時事風物に参照し、或は数久田の瀧の紹介となり、羽地田圃の稲穂の風のたよりとなり、時事あり風景あり一種韻致の文■■内■者の注目する所とはなれり。此の間、社中同人「青葉子の名を■り、君の誰れ人なるかを知るに至りて、交情愈々加はりぬ、一日君は予を訪ねし首里の僑后を叩けり、洋服姿の青年、一見既に欽尚すべきものあり。■■之を久■、君は徐ろに前途の方針を告げ、新聞記者となり県下の時務に貢献せんと欲するの意を漏らし予が意を徴せんが為に来れりと云う。真情流■落面目自から改たるものありて存せり。然れども、予は既に操觚者、境涯の艱難多きを知る、時事の貢献は他道なきにあらず、懇々として之を諌めぬ。時に明治四十一年夏にも近かき頃なりを記憶す、斯くて同年盛暑に際し、君は突然、国頭郡役所在所勤し辞し、貯蓄したる若干金を携へ、上京して以て新聞■の■習に着手するの決めを告け烈然として去り、東京専修学校に入り■ら行政法の研究に■へり、■■■問絶へしごとなく時々「東京だより」となりて紙上に見みえたり。■くて明治四十二年の正月、予は来琉以来初めて上京し、■町区飯街の旅館に宿し■■■■の運動を試みるに際してや、君は補助者として予が宿所に出入し閑暇談笑団を解いて■■り、間もなく■は東京某々新聞社中に入るの■■を捉えんとして未だ■さず、■や■■心を動かすに及べり、折しも県下■■創設に際し、政論沸騰■、有為の青年心■を■もするの際、君は遥かに■■に堪へずとし、■々書を裁して其の意を通し来れり。予疎■応酬甚だ■懃を■き、君が志望に■くの多大なるを知ると■も、心■かに君が他日の大成を祈るものありて存す。県下の■争元と是れ■牛角上の喜劇に過ぎるの一■■を試み■に致しぬ。爾来再三回の■書交換を以て君か東都の生活は■■となり、君の才■は早くも君が先輩たる平良保一氏の■■に投じ、県下の同業沖縄毎日新聞社中の人となりしは、実に昨年十二月のことに■ありき。以て三年の蓄積、新聞記者たるの意志を達するを得たるは■■とするに耐べけんも、而も其■■の表情は他人未だ■て与り知り得ざるものならずんばあらせず。嗚呼君は不敏子の如を以て捨たりとせず、細々心を寄て新聞記者とならんと欲するの意を致しながらも、遂に郷薫先輩の擢用を■って始て素志を達するに及びぬ。人生の蓬■、因縁綯の如し、■糾紛錯、面かも累々として■め定むべからざるもの、夫れ其に■い知るべからずと■つべきか否耶。令茲明治四十三年十月、君は其の志す所の時■■■旋せんが為め先輩平良君を擁して郷里に赴き、県会議員補欠選挙に参与し■大凡熟して■途に在り、船に三浦丸に搭して平良、仲宗根両氏の一行に加わり、同月十日将さに那覇港口に入らんとし強風の為めに覆没し、倶に此い災禍に遭えし安ぞ傷まざるべけんや。聞く君が此の災難に会して為すべからざるを知る、船艙酒杯し取りて平良、仲宗根の先輩と相汲み談笑自若として風雨の猛けるを眺め居たりと、筆を載せては則ち操孤者として、交を結んでは即ち其先輩の■行として倶に難■殉す君が這■に残したる勇壮堅志、自から後■を起すに足るものあらんとす、希くは瞑せよ。を叩けり、洋服姿の青年、一見既に欽尚すべきものあり。■■之を久■、君は徐ろに前途の方針を告げ、新聞記者となり県下の時務に貢献せんと欲するの意を漏らし予が意を徴せんが為に来れりと云う。真情流■落面目自から改たるものありて存せり。然れども、予は既に操觚者、境涯の艱難多きを知る、時事の貢献は他道なきにあらず、懇々として之を諌めぬ。時に明治四十一年夏にも近かき頃なりを記憶す、斯くて同年盛暑に際し、君は突然、国頭郡役所在所勤し辞し、貯蓄したる若干金を携へ、上京して以て新聞■の■習に着手するの決めを告け烈然として去り、東京専修学校に入り■ら行政法の研究に■へり、■■■問絶へしごとなく時々「東京だより」となりて紙上に見みえたり。■くて明治四十二年の正月、予は来琉以来初めて上京し、■町区飯街の旅館に宿し■■■■の運動を試みるに際してや、君は補助者として予が宿所に出入し閑暇談笑団を解いて■■り、間もなく■は東京某々新聞社中に入るの■■を捉えんとして未だ■さず、■や■■心を動かすに及べり、折しも県下■■創設に際し、政論沸騰■、有為の青年心■を■もするの際、君は遥かに■■に堪へずとし、■々書を裁して其の意を通し来れり。予疎■応酬甚だ■懃を■き、君が志望に■くの多大なるを知ると■も、心■かに君が他日の大成を祈るものありて存す。県下の■争元と是れ■牛角上の喜劇に過ぎるの一■■を試み■に致しぬ。爾来再三回の■書交換を以て君か東都の生活は■■となり、君の才■は早くも君が先輩たる平良保一氏の■■に投じ、県下の同業沖縄毎日新聞社中の人となりしは、実に昨年十二月のことに■ありき。以て三年の蓄積、新聞記者たるの意志を達するを得たるは■■とするに耐べけんも、而も其■■の表情は他人未だ■て与り知り得ざるものならずんばあらせず。嗚呼君は不敏子の如を以て捨たりとせず、細々心を寄て新聞記者とならんと欲するの意を致しながらも、遂に郷薫先輩の擢用を■って始て素志を達するに及びぬ。人生の蓬■、因縁綯の如し、■糾紛錯、面かも累々として■め定むべからざるもの、夫れ其に■い知るべからずと■つべきか否耶。令茲明治四十三年十月、君は其の志す所の時■■■旋せんが為め先輩平良君を擁して郷里に赴き、県会議員補欠選挙に参與し■大凡熟して■途に在り、船に三浦丸に搭して平良、仲宗根両氏の一行に加わり、同月十日将さに那覇港口に入らんとし強風の為めに覆没し、倶に此い災禍に遭えし安ぞ傷まざるべけんや。聞く君が此の災難に会して為すべからざるを知る、船艙酒杯し取りて平良、仲宗根の先輩と相汲み談笑自若として風雨の猛けるを眺め居たりと、筆を載せては則ち操孤者として、交を結んでは即ち其先輩の■行として倶に難■殉す君が這■に残したる勇壮堅志、自から後■を起すに足るものあらんとす、希くは瞑せよ。