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尖閣列島と古賀辰四郞氏(十一)
原文表記
尖閣列島と古賀辰四郞氏(十一)
琉球新報 明治四十一年六月二十七日 漏 渓
明治三十七年より創始されたる、古賀氏の南北小島に於ける製鳥の事業が其の後如何なる發達を遂げたるやと見るに、其の製鳥工の人數は最初の十六人より今まは著しく增加せり、而して其の事業が次第に經濟的になりつゝあるは、製鳥と同時に其の剝き取られたる鳥肉と骨とは之れを器械にて絞め、工業用の油を製し、其の糟は之を肥料に製するの工夫が講せられたるによりて其の一般を知ることを得べし、左に三十七年以來の成蹟を記さんに
三十七年 三十八年 三十九年
剝製 十三萬羽 拾六萬羽 二十四萬羽
鳥油 百六拾函 二百函 三百拾悟函
肥料 四萬三千斤 六萬五千斤
四十年度に於ては著しく膨張して剝製四十二萬羽、鳥油四百七十函、鳥肉肥料十一萬斤の多きに達せり、其の他年々數萬斤の鳥毛が輸出せらるゝは久しき以前よりのことたるが故に此處に贅せず
以上の如き數萬若くは數十萬を以て數ふべき剝製の原料たる鳥類が、既に前より縷記したるが如き海天を家とせる海鳥たること云ふ迄もなき所なるが、吾人は尚ほ之れより進んで小島に於ける捕鳥場たり、且つ其鳥類の保護所たる各所の狀况を記さんに、南小島には、専ら梭鳥の來り巣ふと云ふことにて、此の島にも捕獲所、保護場はありとのことなれども、吾人は之が實地踏査をなさゞりき、只た其の北小島には梭鳥初め各種の鳥類は雲霞の如く群集せり、而して専ら保護場として他人容易に之れに登るを許るさゞる規定にて、殆かも霊場の如く爾かなされあり、捕鳥は其の山中の某所に於てさるゝのみ、吾人が上陸したる爲め特別に右の霊場は開れたり古賀氏自ら先導となり、山顚に上ることを得たるが、全山維れ石巌々として僅に數寸の雑草石間石間に生育せるを見る、鳥は其の雑草を褥となして産卵せるものあり、又は巌石の上に其の儘産卵雌伏せるもあり、吾人の到るに於て粉々飛起つ有様は路花の風に吹かるゝに左も似たり、而かも敢て遠くに去らず、忽ちにして其の舊位地に伏することをなす、甚だしきは雛鳥を抱きたるもの、吾人が手もて其頸背を触るゝも嘴もて僅かに抗勢を示すに過ぎず、飛ばんともせざるものあり、人に慣れたりと云はんより寧ろ人の恐るべきを知らず、人家に飼はれたる鶏鴿の夫れよりも尚ほ人を疑ふことを知らざるによるなり之れ單へに古賀氏が保護の其の道を得たるが故ならずと云ふことなし、吾人の一行中一坪の面積中雌伏せる鳥の數を算へんと試みたるものあり、彼女等の飛び起つによりて卵の點在せるを概算したる所によるも、一坪の面積平均四五十は之れあるべしと云へり、而かも此の面積に四五十粒の平均は、總面積一方里内外の此の小島の全部到る處悉く皆な然らざるなしとせば、此處に雌伏せる鳥のみにても甚はた莫大なるを知るべきにあらずや
吾人が尖閣列島中の南北小島、黄尾島及び和平山に上陸し、視察したるは甚だ僅少の時間に過ぎざりき、而して其の觀察眼の及ぶ所亦た甚だ淺薄皮想たるを免かれ得ざるものなくんばあらず、人にして若し仝列島の科學的觀察を聞かんと欲するものあらば、明治三十五年仝列島に旅行したる黒岩恒氏の紀文を一讀あらば、地質、山相産物其他大凡のことは之を知ることを得ん其の外舊大島島司たりし某氏により試みられたる南島探險記中にも多少は記されあるを見る、吾人は今ま是等の紀文若くは探險記以外古賀氏の列島事業に關するものを記さば大要以上にて盡せりと想像す、只だ夫れ是等製鳥以外、開墾以外、漁業以外、燐酸窒素の肥料採掘以外、否な寧ろ古賀氏が是等の事業を創始若くは進行せしめんが爲め努力した事歴中、未だ盡さゞるもの、及び列島中操業上の内容、勞働者一般生活を記さんが爲めには、尚ほ少しく記すべきものなからず
現代仮名遣い表記
尖閣列島と古賀辰四郞氏(十一)
琉球新報 明治四十一年六月二十七日 漏 渓
明治三十七年より創始されたる古賀氏の南北小島に於ける製鳥の事業が、其の後如何なる発達を遂げたるやと見るに、其の製鳥工の人数は最初の十六人より今まは著しく増加せり。而して其の事業が次第に経済的になりつゝあるは、製鳥と同時に其の剝ぎ取られたる鳥肉と骨とは之れを器械にて絞め、工業用の油を製し、其の糟は之を肥料に製するの工夫が講ぜられたるによりて其の一般を知ることを得べし。左に三十七年以来の成蹟を記さんに
三十七年 三十八年 三十九年
剝製 十三万羽 十六万羽 二十四万羽
鳥油 百六十函 二百函 三百十五函
肥料 四万三千斤 六万五千斤
四十年度に於ては著しく膨張して、剝製四十二万羽、鳥油四百七十函、鳥肉肥料十一万斤の多きに達せり。其の他年々数万斤の鳥毛が輸出せらるゝは久しき以前よりのことたるが故に此処に贅せず。
以上の如き数万若くは数十万を以て数うべき剝製の原料たる鳥類が、既に前より縷記したるが如き海天を家とせる海鳥たること言う迄もなき所なるが、吾人は尚お之れより進んで小島に於ける捕鳥場たり、且つ其鳥類の保護所たる各所の状況を記さんに、南小島には専ら梭鳥の来り巣うと言うことにて、此の島にも捕獲所、保護場はありとのことなれども、吾人は之が実地踏査をなさゞりき。只だ其の北小島には梭鳥初め各種の鳥類は雲霞の如く群集せり。而して専ら保護場として他人容易に之れに登るを許るさゞる規定にて、殆かも霊場の如く爾かなされあり。捕鳥は其の山中の某所に於てさるゝのみ。吾人が上陸したる為め特別に右の霊場は開れたり。古賀氏自ら先導となり、山顚に上ることを得たるが、全山維れ石巌々として、僅に数寸の雑草石間石間に生育せるを見る。鳥は其の雑草を褥となして産卵せるものあり。又は巌石の上に其の儘産卵雌伏せるもあり。吾人の到るに於て粉々飛起つ有様は、路花の風に吹かるゝに左も似たり。而かも敢て遠くに去らず、忽ちにして其の旧位地に伏することをなす。甚だしきは雛鳥を抱きたるもの、吾人が手もて其頸背を触るゝも嘴もて僅かに抗勢を示すに過ぎず、飛ばんともせざるものあり。人に慣れたりと言わんより寧ろ人の恐るべきを知らず。人家に飼われたる鶏鴿の夫れよりも尚お人を疑うことを知らざるによるなり。之れ単えに古賀氏が保護の其の道を得たるが故ならずと言うことなし、吾人の一行中一坪の面積中雌伏せる鳥の数を算えんと試みたるものあり。彼女等の飛び起つによりて卵の点在せるを概算したる所によるも、一坪の面積平均四、五十は之れあるべしと言えり。而かも此の面積に四、五十粒の平均は、総面積一方里内外の此の小島の全部到る処悉く皆な然らざるなしとせば、此処に雌伏せる鳥のみにても甚はだ莫大なるを知るべきにあらずや。
吾人が尖閣列島中の南北小島、黄尾島及び和平山に上陸し、視察したるは甚だ僅少の時間に過ぎざりき。而して其の観察眼の及ぶ所亦た甚だ浅薄皮想たるを免がれ得ざるものなくんばあらず。人にして若し同列島の科学的観察を聞かんと欲するものあらば、明治三十五年同列島に旅行したる黒岩恒氏の紀文を一読あらば、地質、山相産物其他大凡のことは之を知ることを得ん。其の外旧大島島司たりし某氏により試みられたる南島探険記中にも多少は記されあるを見る。吾人は今ま是等の紀文若くは探険記以外、古賀氏の列島事業に関するものを記さば、大要以上にて尽せりと想像す。只だ夫れ是等製鳥以外、開墾以外、漁業以外、燐酸窒素の肥料採掘以外、否な寧ろ古賀氏が是等の事業を創始若くは進行せしめんが為め努力した事歴中、未だ尽さゞるもの、及び列島中操業上の内容、労働者一般生活を記さんが為めには、尚お少しく記すべきものなからず。