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尖閣列島と古賀辰四郞氏(十)
原文表記
尖閣列島と古賀辰四郞氏(十)
琉球新報 明治四十一年六月二十六日 漏 渓
海鳥の保護と其の捕獲剝製を以て現今の主たる事業となされある古賀氏の南北小島の地形は、全■禿岩より成れる岩嶼が南と北との兩方に並峙し居れり、製鳥部の本據は南島に構まへられ勞働者及ひ事務員此處に住し居れり、家屋や倉庫、製鳥場其の他港灣、貯水池も此處にあり、厳重なる石垣も此の本據を保障すべく造られあり、一切生活の條件は此の島に備へられありて古賀氏は是等の生活を維持するに適當なる衣食住に必要なる品々を備なへ居るのみならず、各種のプロビツシヨンは時々和平山よりも送遣せられ、那覇の本店、八重山の支店よりも送遣せらるゝと云ふ、去れは此の岩骨の一小天地に生活する人民は、生活問題に就ては何等の苦勞なく其の日月を送りつゝあることなるが、彼等が製鳥に從事する方法と及び其の手際の駿速なるは頗る見るべきものあり、今ま茲に其大略を記さんに、海鳥を捕捉してより愈々其の半成品として製造し終はるまでには四人の手數を要す
彼等の四人者は二人宛相並んで一卓を圍み腰掛に居す、其處に製鳥に必要なる藥品及びナイフ、詰め綿、紙片等は備なへられあり、一人先づ鳥の頸部を断し技工して其の次なるに渡せば、此處にて其の胴體の皮を剝き、更らに其の右前面の一人に渡す、此處にて兩翼の皮は剝かれて、其の傍なるに次す、次者双脚の肉を拔き且つ技工して紙片を以て要所を掩ふ、之を稱して仕上ゲと云ふ、吾人の上陸したる日は製鳥部の休みなりしが故に古賀氏は態々之に命じて二拾四五羽の海鳥を捕獲せしめ、此等技術の實際を見るを得せしめたり、斯くて其の勞働者の鳥を捕獲する様、恰も南米諸島人民の捕鳥の繪画を見るに異ならす、布もて袋したる捕蝶の袋様のものに、之れも同じく長き竹竿を据へ、群鳥乱飛の下に持ち行き、技工的手附きを以て之れを捕ふることをなす。一人之を捕らへ一人は之れを携■に收む、更に他の一人は擬鳥を持して群鳥の心を誘ふ、未だ十分時ならずして既に■拾五六を捉へ了せり、而かも其の行動の神速なるは歎稱に値す
斯の如くして造り上げられたるは素より半成品なり、古賀氏は此の半成の剝製品を數日、棚に收め■乾燥するを待ち、箱詰となし、舩に托して之を神戸、横濱等の外商の手に渡すとのことなるが、外商は又た之を本國に送致し、之れに色彩其の他の加工して市場に上ほすと云ふ、而して其の使途は専ら泰西婦人帽子の飭りに供せらる
吾人が聞き得る所によれば、古賀氏が製鳥を初めたるは去る明治三十六七年頃のことなりと云ふ、此の種製品の外國輸出品として國益となるは豫て知り居たることなから、職工を得ること能はず、荏遷年月を送り居たりと也、而かも其の利源を眼前に控へて之れを收めざるは天物を叨りにするの感あり、愈實行に着手したるは上記の年頃なりと云ふ、此の事に就き吾人多くを語るべき材料を有せり、其は古賀氏が製鳥を初めんとして斯業者間の猜忌に触れたることなり。而して其の職業を秘し■断然之を知らしめざりし等は、仝氏が再び肝膽を碎くの原由とはなりしなり、古賀氏の實話によれば氏は此の職業閉鎖的行動に障害せられ、僅か計りの手蔓を見出しては彼處、此處に奔走して漸くにして十有五六人を見出したりと云ふことなるが、此の間明治三十六年の上半期より大凡半歳の月日を、奔走探索に費やしたりと也、而して其の奔走の區域は北は北海道に及び、南は京坂地方に及び職工を求めんが爲めに旅行を續けたり、偶々武州大宮在に一人を見出し渡航相談したるに、幾何高價の賃錢を拂はんとするも応ぜざりき、蓋し此の尖閣列島の地か、一に無人島として知られ、専ら恐怖すべき所なりと感じたるか故なりと
斯くの如くにして奔走探索の結果漸やく前記十六人の職工を見出したるは横濱にてありき、是等は皆な南洋歸りのものにして、外國向き製鳥を知ものなりしが故に古賀氏は喜んで雇入の契約を締結したりとのことなるが、其の時は既に明治三十六年の夏過き秋風涼しき頃なりしを以て、氣候大に後れ、海鳥他に散したるを以て、三十七年度よりして事業に着手することゝなりぬ、其の間古賀氏が事業地に、鳥群の夥しきを傳へ聞くもの、若くは古賀氏より實地打ち明けての相談に與りたるもの、私かに之れが企業を想ひ立ち、夫れぞれ資本主を語らひ、遙々琉球地方にまで潜行密謀して古賀氏が經營の裏を搔かんとしたるものあり、古賀氏の周密なる用意と、事業に對する天佑とにより、脆くも其の事の暴露して、古賀氏が茲に大量を以て是等一類の陰謀者を侍偶したる事實談あり、世上人心陰謀奸計に巧みなるの有様歴々之を掌上に見るの感あり、吾人は之を記して實直なる企業家の參考として大に發明に資すべきものあれども、今は暫らく之を具體的に画き出すをば見合はせ置かんのみ
現代仮名遣い表記
尖閣列島と古賀辰四郞氏(十)
琉球新報 明治四十一年六月二十六日 漏 渓
海鳥の保護と其の捕獲剝製を以て現今の主たる事業となされある古賀氏の南北小島の地形は、全■禿岩より成れる岩嶼が南と北との両方に並峙し居れり。製鳥部の本拠は南島に構まえられ、労働者及び事務員此処に住し居れり。家屋や倉庫、製鳥場其の他港湾、貯水池も此処にあり。厳重なる石垣も此の本拠を保障すべく造られあり。一切生活の条件は此の島に備えられありて、古賀氏は是等の生活を維持するに適当なる衣食住に必要なる品々を備なえ居るのみならず、各種のプロビッションは時々和平山よりも送遣せられ、那覇の本店、八重山の支店よりも送遣せらるゝと言う。去れば此の岩骨の一小天地に生活する人民は、生活問題に就ては何等の苦労なく其の日月を送りつゝあることなるが、彼等が製鳥に従事する方法と及び其の手際の駿速なるは頗る見るべきものあり。今ま茲に其大略を記さんに、海鳥を捕捉してより愈々其の半成品として製造し終わるまでには四人の手数を要す。
彼等の四人者は二人宛相並んで一卓を囲み腰掛に居す。其処に製鳥に必要なる薬品及びナイフ、詰め綿、紙片等は備なえられあり。一人先づ鳥の頸部を断し技工して其の次なるに渡せば、此処にて其の胴体の皮を剝ぎ、更らに其の右前面の一人に渡す。此処にて両翼の皮は剝がれて、其の傍なるに次す。次者双脚の肉を抜き且つ技工して紙片を以て要所を覆う。之を称して仕上げと言う。吾人の上陸したる日は製鳥部の休みなりしが故に、古賀氏は態々之に命じて二十四、五羽の海鳥を捕獲せしめ、此等技術の実際を見るを得せしめたり。斯くて其の労働者の鳥を捕獲する様、恰も南米諸島人民の捕鳥の絵画を見るに異ならず。布もて袋したる捕蝶の袋様のものに、之れも同じく長き竹竿を据え、群鳥乱飛の下に持ち行き、技工的手附きを以て之れを捕うることをなす。一人之を捕らえ、一人は之れを携■に収む。更に他の一人は擬鳥を持して群鳥の心を誘う。未だ十分時ならずして既に■十五、六を捉え了せり。而かも其の行動の神速なるは嘆称に値す。
斯の如くして造り上げられたるは元より半成品なり。古賀氏は此の半成の剝製品を数日棚に収め■乾燥するを待ち、箱詰となし、船に托して之を神戸、横浜等の外商の手に渡すとのことなるが、外商は又た之を本国に送致し、之れに色彩其の他の加工して市場に上おすと言う。而して其の使途は専ら泰西婦人帽子の飾りに供せらる。
吾人が聞き得る所によれば、古賀氏が製鳥を初めたるは去る明治三十六、七年頃のことなりと言う。此の種製品の外国輸出品として国益となるは予て知り居たることながら、職工を得ること能わず。荏遷年月を送り居たりと也。而かも其の利源を眼前に控えて之れを収めざるは、天物を叨りにするの感あり。愈実行に着手したるは上記の年頃なりと言う。此の事に就き吾人多くを語るべき材料を有せり。其は古賀氏が製鳥を初めんとして斯業者間の猜忌に触れたることなり。而して其の職業を秘し■断然之を知らしめざりし等は、同氏が再び肝胆を砕くの原由とはなりしなり。古賀氏の実話によれば、氏は此の職業閉鎖的行動に障害せられ、僅か計りの手蔓を見出しては彼処、此処に奔走して漸くにして十有五、六人を見出したりと言うことなるが、此の間明治三十六年の上半期より大凡半歳の月日を奔走探索に費やしたりと也。而して其の奔走の区域は北は北海道に及び、南は京坂地方に及び、職工を求めんが為めに旅行を続けたり。偶々武州大宮在に一人を見出し渡航相談したるに、幾何高価の賃銭を払わんとするも応ぜざりき。蓋し此の尖閣列島の地が、一に無人島として知られ、専ら恐怖すべき所なりと感じたるが故なりと。
斯くの如くにして奔走探索の結果漸やく前記十六人の職工を見出したるは横浜にてありき。是等は皆な南洋帰りのものにして、外国向き製鳥を知ものなりしが故に、古賀氏は喜んで雇入の契約を締結したりとのことなるが、其の時は既に明治三十六年の夏過ぎ秋風涼しき頃なりしを以て、気候大に後れ、海鳥他に散したるを以て、三十七年度よりして事業に着手することゝなりぬ。其の間古賀氏が事業地に鳥群の夥しきを伝え聞くもの、若くは古賀氏より実地打ち明けての相談に与りたるもの、私かに之れが企業を想い立ち、夫れぞれ資本主を語らい、遙々琉球地方にまで潜行密謀して古賀氏が経営の裏を搔かんとしたるものあり。古賀氏の周密なる用意と、事業に対する天祐とにより、脆くも其の事の暴露して、古賀氏が茲に大量を以て是等一類の陰謀者を侍偶したる事実談あり。世上人心陰謀奸計に巧みなるの有様歴々之を掌上に見るの感あり。吾人は之を記して実直なる企業家の参考として大に発明に資すべきものあれども、今は暫らく之を具体的に画き出すをば見合わせ置かんのみ。