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尖閣列島と古賀辰四郞氏(八)

掲載年月日:1908/6/23(火) 明治41年
メディア:琉球新報社 2面 種別:記事

原文表記

尖閣列島と古賀辰四郞氏(八)
 琉球新報 明治四十一年六月二十三日  漏  渓

吾人は尖閣列島中各嶼の港灣を記する前、列島沿岸の一般形勢■紹介するにあらざれば、此の港灣の開鑿に對する古賀氏苦心の存する所と及び其の開鑿の必要に就き、江湖の想像に訴へんこと能はざるべしを信す、尤とも此の事に就ては、吾人が前■縷々記するが如く列島各嶼の沿岸が一帶に、古代珊瑚礁を以て成れりとの一事を承知せるに於ては、沖繩本島内那覇附近沿岸に於ける珊瑚礁の狀態より大體の想像は之を画くに難からざるべし、然れども右列島の珊瑚礁が上記のものよりは著しく隆起し且つ凸凹せると、而して又た其の前面の海中、淺瀬をなして長く延ひ形成せられて、危險なる暗礁をなせるとは、港灣開鑿工事上、那覇附近の沿岸に仝性質のものを工作するに比すれば遙かに難工事なるを豫じめ知り置くの必要あるべし、况んや右の礁上には山岳より崩れ來たれる怪石巨巌の各所に點在せるに於ておや、古賀氏が右の港灣工事を始むるに方りて、先づ是等の石を排去するに多大の苦心を費やしたる所以■として茲に在りとす
吾人が親しく觀察したる所によれば、仝列島の三嶼共、港灣なくては到底叶ふまじき地勢たるなり、其の理由は前記の如き珊瑚礁には刳舟ならざる限りは、他の舩舶にして之れに近寄ること能はざる實情、之れを那覇附近のものに比し直ちに承認することを得る次第なるに拘はらず、其の盤岩が著しく隆起せると、淺瀬を爲せる部分の割合■寮長なるとは、愈々以て列島經營者が荷物の運搬、人貨の上げ下りに絶大の不便を感するものにして、若し百倍の勇氣を鼓して敢て之を冒さんとするも、逆巻く瀬浪と、淺瀬の爲めに多大の犠牲を拂つて得る所は僅かに其の幾分なるべきや疑問なるべし、加之、古賀氏が列島經營上取扱ふ所の荷物と人貨と、年に月に增加、大嵩のものとなり來るに於て、刳舟の如き些細なるものに依頼すること能はざる狀情の壓迫あるに於ておや
故に古賀氏は茲に列島百年の基礎を定めんが爲め■■として各嶼の根據地に對し、艀舟若くは鰹船の出入を自在に且つ安全ならしむる爲め、之れが港灣の開鑿にとは從事せり、而かも其の工事は前記の如き地勢に試みらるゝのみならず、其の設計の全部が全たく素人の手に依頼するものたるが故に、其工作及び設計■の變革せられたるもの一港灣を開くに對し幾數回の多きに達せりと云ふ、吾人が實地見たる所のみによるも、南北小島に於ける港灣の開鑿の半ば成らんと欲して怒濤の爲めに轉覆せられ、剰さへ其の附近全體の地勢に一大變化を與たへ、終に工事を廢絶し且つ他に便利の地點を撰定するの止むなきものありし趾跡を目撃し、轉た凄惨の感懐を禁し得ざるものありき、
斯くて其の右と仝様なる既成若くは半成の工事が、風濤の爲めに轉覆せられ、設計の變更せられたるもの、及び其の設計が全たく素人業に属するが故を以て、他に便宜の發見と共に全部を變更せられたる等は獨り南北小島のみならず、黄尾島にも之れあり、和平山にも之れありて列島二嶼沿岸の地點に古賀氏が港灣を以て風濤と激鬪し、苦戰し、困戰若くは悪戰したる形蹟は歴々として之を指點せらるゝは、偶々以て氏が不屈不撓の精神が如何に雄壯なるを見るに足るべきのみならず、氏が港灣開鑿に對する熱心と困苦とを具さに吾人に物語るものにあらずや、去れば吾人は今回初めての列島視察に於て、附近沿岸數十浬の見渡す限り鰹魚道の通せるを見て驚くよりも、南北小島に海鳥の大群を見て驚歎するよりも、古賀氏が列島に於ける經營上奮戰、苦鬪の歴史の趾を視察して以て轉た感慨の多くを催し來るものなくんばあらず、嚮きに古賀氏は飮水を得んが爲めに之れと戰ひ、家屋を得んが爲めには、敷地の爲めに盤石と戰へり、而して其の住居の安全を保護せんが爲めには、石垣を築き波浪に對して戰へり、斯くて其の苦しき各種の戰鬪を續け居る傍ら、列島各嶼に一個若くは二個宛の港灣を得が爲めに、以上の奮鬪を續け來れりとせば、氏が列島經營の事業は奮鬪の活歴史にして而かも其の隠忍耐苦、事業を愛し、之れに熱心なる企業家たる仝氏の一大表彰たりと云ふべし、
吾人が實地視察したる所によれば、右の如き奮鬪の結果たる列島中の港灣は、和平山に二個、黄尾島に一個、南北小島に一個あり、而して其の現在の有様は前段記するが如く、大約之れを通して奥行五六拾間、間口拾七、八間はあるべし、然れども之れ只だ其の目に映したる所のみ、淺瀬を爲したる長遼なる暗礁を開きて舩舶を通せんが爲め、且つ其の港内に内地形鰹漁舩を入るゝに足るものたらしむる爲めには、狂瀾之に逆巻く、沿岸の開鑿上水深も又た之れに稱ふものたらさるべからざるべし、去れば吾人が今茲に記する所は、只た其の目に映したる表面のことのみ、其の他に於て觀察眼を開くの要あるは素より云ふ迄もなし、
港灣開鑿に關する古賀氏の直話によれば、該工事は専らダイナマイトを以て爆破されたるものなりといふ、而して其の工事の擔任者は元來素人なりしが、慣るに從ひ次第に熟練するに及びたりとのことなるが、右の港灣に對する未成事業は尚ほ多くを餘ませり、且つ古賀氏が之に對する希望は一層之を大規模となし、舩舶の出入寄泊の安全を期するに在りと云ふことなるが、多くの勞力を費やし今後數年を要するにあらざれば之れが完成を見ること能はざるべし

現代仮名遣い表記

尖閣列島と古賀辰四郞氏(八)  
 琉球新報 明治四十一年六月二十三日  漏  渓

吾人は尖閣列島中各嶼の港湾を記する前、列島沿岸の一般形勢■紹介するにあらざれば、此の港湾の開鑿に対する古賀氏苦心の存する所と及び其の開鑿の必要に就き、江湖の想像に訴えんこと能わざるべしを信ず。尤とも此の事に就ては、吾人が前■縷々記するが如く列島各嶼の沿岸が一帯に、古代珊瑚礁を以て成れりとの一事を承知せるに於ては、沖縄本島内那覇附近沿岸に於ける珊瑚礁の状態より大体の想像は之を画くに難からざるべし。然れども右列島の珊瑚礁が上記のものよりは著しく隆起し且つ凸凹せると。而して又た其の前面の海中、浅瀬をなして長く延び形成せられて、危険なる暗礁をなせるとは、港湾開鑿工事上、那覇附近の沿岸に同性質のものを工作するに比すれば遙かに難工事なるを予じめ知り置くの必要あるべし。況んや右の礁上には山岳より崩れ来たれる怪石巨巌の各所に点在せるに於ておや。古賀氏が右の港湾工事を始むるに方りて、先づ是等の石を排去するに多大の苦心を費やしたる所以■として茲に在りとす。
吾人が親しく観察したる所によれば、同列島の三嶼共、港湾なくては到底叶うまじき地勢たるなり。其の理由は、前記の如き珊瑚礁には刳舟ならざる限りは、他の船舶にして之れに近寄ること能わざる実情、之れを那覇附近のものに比し直ちに承認することを得る次第なるに拘わらず、其の盤岩が著しく隆起せると、浅瀬を為せる部分の割合■寮長なるとは、愈々以て列島経営者が荷物の運搬、人貨の上げ下りに絶大の不便を感ずるものにして、若し百倍の勇気を鼓して敢て之を冒さんとするも、逆巻く瀬浪と浅瀬の為めに、多大の犠牲を払って得る所は僅かに其の幾分なるべきや疑問なるべし。加之、古賀氏が列島経営上取扱う所の荷物と人貨と、年に月に増加、大嵩のものとなり来るに於て、刳舟の如き些細なるものに依頼すること能わざる状情の圧迫あるに於ておや。
故に古賀氏は茲に列島百年の基礎を定めんが為め、■■として各嶼の根拠地に対し、艀舟若くは鰹船の出入を自在に且つ安全ならしむる為め、之れが港湾の開鑿にとは従事せり。而かも其の工事は前記の如き地勢に試みらるゝのみならず、其の設計の全部が全たく素人の手に依頼するものたるが故に、其工作及び設計■の変革せられたるもの一港湾を開くに対し幾数回の多きに達せりと言う。吾人が実地見たる所のみによるも、南北小島に於ける港湾の開鑿の半ば成らんと欲して怒濤の為めに転覆せられ、剰さえ其の附近全体の地勢に一大変化を与たえ、終に工事を廃絶し且つ他に便利の地点を選定するの止むなきものありし趾跡を目撃し、転た凄惨の感懐を禁じ得ざるものありき。
斯くて其の右と同様なる既成若くは半成の工事が、風濤の為めに転覆せられ、設計の変更せられたるもの、及び其の設計が全たく素人業に属するが故を以て、他に便宜の発見と共に全部を変更せられたる等は独り南北小島のみならず、黄尾島にも之れあり、和平山にも之れありて、列島二嶼沿岸の地点に古賀氏が港湾を以て風濤と激闘し、苦戦し、困戦若くは悪戦したる形蹟は、歴々として之を指点せらるゝは、偶々以て氏が不屈不撓の精神が如何に雄壮なるを見るに足るべきのみならず、氏が港湾開鑿に対する熱心と困苦とを具さに吾人に物語るものにあらずや。去れば吾人は今回初めての列島視察に於て、附近沿岸数十浬の見渡す限り鰹魚道の通せるを見て驚くよりも、南北小島に海鳥の大群を見て驚歎するよりも、古賀氏が列島に於ける経営上奮戦、苦闘の歴史の趾を視察して以て転た感慨の多くを催し来るものなくんばあらず。嚮きに古賀氏は飲水を得んが為めに之れと戦い、家屋を得んが為めには、敷地の為めに盤石と戦えり。而して其の住居の安全を保護せんが為めには、石垣を築き波浪に対して戦えり。斯くて其の苦しき各種の戦闘を続け居る傍ら、列島各嶼に一個若くは二個宛の港湾を得が為めに、以上の奮闘を続け来れりとせば、氏が列島経営の事業は奮闘の活歴史にして、而かも其の隠忍耐苦、事業を愛し、之れに熱心なる企業家たる同氏の一大表彰たりと言うべし。
吾人が実地視察したる所によれば、右の如き奮闘の結果たる列島中の港湾は、和平山に二個、黄尾島に一個、南北小島に一個あり。而して其の現在の有様は前段記するが如く、大約之れを通して奥行五、六十間、間口十七、八間はあるべし。然れども之れ只だ其の目に映したる所のみ。浅瀬を為したる長遼なる暗礁を開きて船舶を通せんが為め、且つ其の港内に内地形鰹漁船を入るゝに足るものたらしむる為めには、狂瀾之に逆巻く沿岸の開鑿上水深も又た之れに称うものたらざるべからざるべし。去れば吾人が今茲に記する所は、只だ其の目に映したる表面のことのみ。其の他に於て観察眼を開くの要あるは元より言う迄もなし。
港湾開鑿に関する古賀氏の直話によれば、該工事は専らダイナマイトを以て爆破されたるものなりという。而して其の工事の担任者は元来素人なりしが、慣るに従い次第に熟練するに及びたりとのことなるが、右の港湾に対する未成事業は尚お多くを余ませり。且つ古賀氏が之に対する希望は一層之を大規模となし、船舶の出入寄泊の安全を期するに在りと言うことなるが、多くの労力を費やし今後数年を要するにあらざれば、之れが完成を見ること能わざるべし。