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尖閣列島と古賀辰四郞氏(五)

掲載年月日:1908/6/20(土) 明治41年
メディア:琉球新報社 2面 種別:記事

原文表記

尖閣列島と古賀辰四郞氏(五)
 琉球新報 明治四十一年六月二十日  漏  渓

尖閣列島沿岸に於ける魚族の如何なる種類が生息せるかは吾人の得て與かり知る所にあらず、而して又た其の沿岸に於て目下古賀氏によりて行はれつゝある鰹漁が、他の仝業者との比較上如何なる位置にあるべきかは門外漢たる吾人にとりては全たく不案内なれとも、然かも其の一行中専門の知識ある玉城拔手其の他によりて指示せらるゝ所によれは、列島沿岸の鰹漁道は、漫々たる海洋見渡す限り、數十浬に亙りて、長き長き通路をなして魚群の往來せるを認むることを得ん、最初吾人は是等一帶の魚道が果して何ものたるかを知らざりき、去れど其の黒潮急流の通する處、海面に長き帶をなし、數萬若くは數十萬の海鳥其の上に飛翔し、或は海波の上に隠顕たるの有様、奇觀、大觀と謂つべきを認めて、魚群の往來せるものたるべしとの想像を■き得ざるにあらざりし也、蓋し海面鳥群の集まる處、魚族其の下に居て食餌を逐ふものなりとの話説■豫■承知し居たればなり、然れども其の■■き魚道が大洋面上に形らるゝものなりとは未だ吾人の想像■得ざる所たりしなり、然り而して其■吾人の想像にだに未た上ぼり來ること能はざりし、長き魚道が鰹漁の一群たるを知るを得て、吾人は殆ど驚歎を以て之を迎へざること能はざるべし
吾人が初めて該列島中の和平山に著したる日、朝來雨は蕭々として海波漸や激するの時なりき、艀舟の動揺掀翻たるも時にとりての興趣なきにあらざりしが、前記の如■無數の鳥群魚道の上に集まるの景况は殊更に吾人の感興を匿きたり、斯くて仝日午後吾人の乘船は、和平山を拔錨■僅か二拾三町餘を離れたる小島に趣けり、則ち和平山を左前面に見て、南北兩島■分れたる小島を前頭に眺めもて行■、而して此の間も又た海鳥上に群り、魚群其の下に集まるの壯觀を呈したりしが、其の後吾人の乘舩が小島に著したるより直ちに拔錨して八重山西表に引き返へし各所を經由して再び仝列島に航行したる時、吾人は南北小島より拾三浬を北東に航し黄尾島に行きたるが、其途中の觀察も又た此の魚道の上に集まる無數の鳥群を認むるの外何ものとてはあらざりし也、斯くて其の黄尾島より西南拾三浬半の和平山に復航したる時の途中の景色も又た此の奇觀、大觀を認むるの外はあらざりしが、此處に吾人は黄尾島より和平山に至る航路の展望甚だ廣きを利用し、試に双眼鏡を執つて一望すれば、黄尾島を中心として左右即ち北東と西南に延びたる廣大なる魚道の擴かりを望見せるのみならず、乘舩航路の進むに從ひ、而して其の船の和平山に近づくに從ひ、一帶の魚道は黄尾島沿岸のものと聯絡し、遠く西南の方向をとりて延長せるを認めたり、吾人は未だ此の長き通路を求めつゝある魚群が、何れより來り何處に趣くものなるかを詳知する能はずと雖、然かも其蜿蜒長蛇の勢を爲せる魚道の中に集まる魚族が鰹の一隊たるを知るに於て、列島沿岸の鰹漁業が如何に有望豊富たるべきやは之を想像するに難からざるべし聞く所によれば、古賀氏が明治十七年始めて列島經營に着手したる後、氏は列島に於ける鰹漁の有望なるを知り、漁夫を遣はし斯業を試みつゝありしが、更らに其の盛大を圖らんが爲め、去る明治三十八年には、堅牢なる鰹漁船を建造し、宮崎縣下其の他の地方より熟練なる漁夫と、鰹節製造者を雇ひ入れ、年々新規の方法により之れが製出に勉めおれり、吾人が列島に著したる時は、鰹の漁期始まりて既に兩三ヶ月を經たる頃なりしを以て之れに對する古賀氏が一般の經營を窺ひ知ることを得たり
始め古賀氏が列島沿岸に於ける漁業は、糸滿人を使役し、刳舟により延繩を用ひ、之を試みたるに過ぎさりしとのことなるが故に一體の規模必らずしも大企業の面目を備なへたりとは、想像せられざれども去る三十八年始めて内地形鰹漁船を建造したる以來は、次第に其の面目を改め來りて、鰹節年々の製造高は六七萬斤を越ふるに至れりとのことなり、吾人が當時一覧したる所によるも、其の鰹節製造場に据へ付ある製造釜の大さは口經三尺四五寸計りなるが六個相並びて一棟の内に据付られ、他に二個の製造釜が別屋の内に据へ付ある認めたり、此の外不時の準備の爲めにとて四個の釜は用意せられありしが、此の一釜による鰹節の煮沸量は通常一回四百本に及ぶものあるが故に、六個の釜が仝時に活動する時は、煮沸を始めたるより僅々數十分時にして二千四百本の鰹節は、先づ其の第一次の製造を見る譯なり、然るに鰹節の製造は、其の全たく終了に至るまでには、燻蒸其の他六七回の手數を經て始めて完成を告ぐる次第なるを以て、他に之れに属する設備は幾ヶ所にもありたるかなれども、吾人は其の是を記す以前尚ほ引き續き古賀氏が鰹漁に對する計劃の内容が如何に愉快なるものあるかを記さゞるべからず

現代仮名遣い表記

尖閣列島と古賀辰四郞氏(五)  
 琉球新報 明治四十一年六月二十日  漏  渓

尖閣列島沿岸に於ける魚族の如何なる種類が生息せるかは、吾人の得て与かり知る所にあらず。而して又た其の沿岸に於て目下古賀氏によりて行われつゝある鰹漁が、他の同業者との比較上如何なる位置にあるべきかは、門外漢たる吾人にとりては全たく不案内なれども、然かも其の一行中専門の知識ある玉城技手其の他によりて指示せらるゝ所によれば、列島沿岸の鰹漁道は、漫々たる海洋見渡す限り数十浬に亘りて、長き長き通路をなして魚群の往来せるを認むることを得ん。最初吾人は是等一帯の魚道が果して何ものたるかを知らざりき。去れど其の黒潮急流の通する処、海面に長き帯をなし、数万若くは数十万の海鳥其の上に飛翔し、或は海波の上に隠顕たるの有様、奇観、大観と謂つべきを認めて、魚群の往来せるものたるべしとの想像を■き得ざるにあらざりし也。蓋し海面鳥群の集まる処、魚族其の下に居て食餌を逐うものなりとの話説■予■承知し居たればなり。然れども其の■■き魚道が大洋面上に形らるゝものなりとは未だ吾人の想像■得ざる所たりしなり。然り而して其■吾人の想像にだに未だ上ぼり来ること能わざりし、長き魚道が鰹魚の一群たるを知るを得て、吾人は殆ど驚嘆を以て之を迎えざるを能わざるべし。
吾人が初めて該列島中の和平山に著したる日、朝来雨は蕭々として海波漸や激するの時なりき。艀舟の動揺欣躍たるも時にとりての興趣なきにあらざりしが、前記の如■無数の鳥群魚道の上に集まるの景況は殊更に吾人の感興を匿きたり。斯くて同日午後、吾人の乗船は和平山を抜錨■僅か二十三町余を離れたる小島に趣けり。則ち和平山を左前面に見て、南北両島■分れたる小島を前頭に眺めもて行■、而して此の間も又た海鳥上に群り、魚群其の下に集まるの壮観を呈したりしが、其の後吾人の乗船が小島に著したるより直ちに抜錨して八重山西表に引き返えし、各所を経由して再び同列島に航行したる時、吾人は南北小島より十三浬を北東に航し黄尾島に行きたるが、其途中の観察も又た此の魚道の上に集まる無数の鳥群を認むるの外何ものとてはあらざりし也。斯くて其の黄尾島より西南十三浬半の和平山に復航したる時の途中の景色も又た此の奇観、大観を認むるの外はあらざりしが、此処に吾人は黄尾島より和平山に至る航路の展望甚だ広きを利用し、試に双眼鏡を執って一望すれば、黄尾島を中心として左右即ち北東と西南に延びたる広大なる魚道の拡がりを望見せるのみならず、乗船航路の進むに従い、而して其の船の和平山に近づくに従い、一帯の魚道は黄尾島沿岸のものと連絡し、遠く西南の方向をとりて延長せるを認めたり。吾人は未だ此の長き通路を求めつゝある魚群が、何れより来り何処に趣くものなるかを詳知する能わずと雖、然かも其蜿蜒長蛇の勢を為せる魚道の中に集まる魚族が鰹の一隊たるを知るに於て、列島沿岸の鰹漁業が如何に有望豊富たるべきやは之を想像するに難からざるべし。聞く所によれば、古賀氏が明治十七年始めて列島経営に着手したる後、氏は列島に於ける鰹漁の有望なるを知り、漁夫を遣わし斯業を試みつゝありしが、更らに其の盛大を図らんが為め、去る明治三十八年には、堅牢なる鰹漁船を建造し、宮崎県下其の他の地方より熟練なる漁夫と鰹節製造者を雇い入れ、年々新規の方法により之れが製出に勉めおれり。吾人が列島に著したる時は、鰹の漁期始まりて既に両三ヶ月を経たる頃なりしを以て、之れに対する古賀氏が一般の経営を伺い知ることを得たり。
始め古賀氏が列島沿岸に於ける漁業は、糸満人を使役し、刳舟により延縄を用い、之を試みたるに過ぎざりしとのことなるが故に一体の規模必らずしも大企業の面目を備なえたりとは想像せられざれども、去る三十八年始めて内地形鰹漁船を建造したる以来は、次第に其の面目を改め来りて、鰹節年々の製造高は六、七万斤を越うるに至れりとのことなり。吾人が当時一覧したる所によるも、其の鰹節製造場に据え付ある製造釜の大さは口経三尺四、五寸計りなるが六個相並びて一棟の内に据付られ、他に二個の製造釜が別屋の内に据え付ある認めたり。此の外不時の準備の為めにとて四個の釜は用意せられありしが、此の一釜による鰹節の煮沸量は通常一回四百本に及ぶものあるが故に、六個の釜が同時に活動する時は、煮沸を始めたるより僅々数十分時にして二千四百本の鰹節は、先づ其の第一次の製造を見る訳なり。然るに鰹節の製造は、其の全たく終了に至るまでには、燻蒸其の他六、七回の手数を経て始めて完成を告ぐる次第なるを以て、他に之れに処する設備は幾ヶ所にもありたるかなれども、吾人は其の是を記す以前尚お引き続き古賀氏が鰹漁に対する計画の内容が如何に愉快なるものあるかを記さゞるべからず。