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八重山通信

掲載年月日:1908/6/12(金) 明治41年
メディア:琉球新報社 2面 種別:記事

原文表記

八重山通信
琉球新報 明治四十一年六月十二日

六月八日   八重山 童子
去る三十一日宮古を經て入港したる球場丸船客の一行は農學博士恒藤規隆氏を始めとし、官史、銀行家、實業家、中學校敎員及新聞記者てふ縣内あらゆる方面の重なる要素と他の高尚なる専門の智識を綱羅したることゝて八重山全島心ならんものは注目せさるものとてはあらさりき、形容すれば八重山開闢以來空前とも云ふべき此等の旅行隊が入港すべき■報は前以て傳へられてありければ所用ある人も旅行を見合せたるがありと云ふことなり、斯くて右一行の旅行隊が上陸すると直ちに琉球新報社の漏渓子は結束直ちに八重山牧場を視察したるが他の一分隊は或は側候所に赴くもあり、又は廣連會社の招待會準備に取懸るもありて原況甚だ多忙に見受けられたり、軈て午後四時に至れは大川尋常小學校に於て
   廣運會社の招待會
は一切の準備を整へ來賓は三々五々此處に落合ふを見受けたり 
右招待會に於ける重なる來賓としては中馬島司、裁判所高等官、郵便局長等を始めとして實業家の重なる部分、惣計四五十名と見受けたり、同會社専務取締役小嶺幸之氏は起て一場の挨拶をなしたり、而して其の要領は、先島航路に於ける廣運會社の來感、計劃及び將來の希望■■ありしが、殊に仝島が石炭の供給地として、將來開拓の餘地ある希望の一地方として、球陽丸が其の筋の航路補助を受け既往に於て爲し來りたる所、及び將來尚ほ三ヶ年間の補助を受け仝島の便宜を計る熱心の希望は、小嶺氏の口よりして好く一般の來賓に徹底したるべく想はれたり、之れに對する答辞は中馬島司によりて述べられたり、而して後に開宴、蓄音器の餘興あり、満場溢るゝ計りの盛會なりき
右の一行は仝夜直ちに尖閣列島に向け出發せり後にて聞けば球陽丸は六月一日尖閣列島に到り仝夜直ちに引き返して西表島に航行したる由なり、仝所に於ては、高嶺朝申等の經營になれる炭坑あり元成■炭坑と云ふ、抗夫四百餘名を使役し坑口五ッを開らき、成蹟は見るべきものあるが、仝地に到りても
   招待會
はありたりと也、高嶺朝申氏主催となり、炭坑■納屋頭以上、事務員等を招待して宴會は催されたるが、仝席上に於ける高嶺氏の演舌は、主として炭坑の如き大人數の力によりて一の事業を營むに就ては全く關係者が皆同心一體となり、各々義務心の命ずる所によりて其の受け持ちの職分を尽す精神の旺盛なると如何と■之れによる、殊に風紀上の頽■は事業の上に痛切の關係を有するものに付大に勤勉力行の氣風を養成し、大に收入を得て、大に樂しみ、盛んに動きて、大なる成功を持ち來らすの覺悟が肝要なり云々と云ふにありき
開宴中坑夫の心利きたるものは各々隠し藝を演するものあり、三味線に妙なる婦人もあり、少婦の踊りは巧なるなど、各方面より、有らゆる人々の落合ひたる所柄とは云へ、勸聲笑語絶ふる時なく、苦界におつて苦痛を知らず、人世の配剤至妙絶妙なるを想はしむるの外はあらさりしと也
然るに右旅行隊は西表島より與那國島に赴き更らに尖閣列島に行き、去る九日又たまた當石垣島に着きたり、重なる部隊は先度見殘したる牧場を視察し騎馬に誇り聯騎徹遊など洒落たるもありて、其行樂の間彼等の磊々たるの態度は大に島民の注意を引くものありき

現代仮名遣い表記

八重山通信
琉球新報 明治四十一年六月十二日

六月八日 八重山 童子
去る三十一日、宮古を経て入港したる球場丸船客の一行は、農学博士恒藤規隆氏を始めとし、官史、銀行家、実業家、中学校教員及新聞記者てう県内あらゆる方面の重なる要素と他の高尚なる専門の智識を綱羅したることゝて、八重山全島心ならんものは注目せざるものとてはあらざりき、形容すれば八重山開闢以来空前とも言うべき此等の旅行隊が入港すべき■報は前以て伝えられてありければ、所用ある人も旅行を見合せたるがありと言うことなり。斯くて右一行の旅行隊が上陸すると、直ちに琉球新報社の漏渓子は結束直ちに八重山牧場を視察したるが、他の一分隊は或は側候所に赴くもあり、又は廣運會社の招待会準備に取懸るもありて原況甚だ多忙に見受けられたり。軈て午後四時に至れば大川尋常小学校に於て、
   廣運會社の招待会
は一切の準備を整え、来賓は三々五々此処に落合うを見受けたり。右招待会に於ける重なる来賓としては、中馬島司、裁判所高等官、郵便局長等を始めとして実業家の重なる部分、総計四、五十名と見受けたり。同会社専務取締役小嶺幸之氏は起て一場の挨拶をなしたり。而して其の要領は、先島航路に於ける廣運會社の来感、計画及び将来の希望■■ありしが、殊に同島が石炭の供給地として将来開拓の余地ある希望の一地方として、球陽丸が其の筋の航路補助を受け既往に於て為し来りたる所、及び将来尚お三ヶ年間の補助を受け同島の便宜を計る熱心の希望は、小嶺氏の口よりして好く一般の来賓に徹底したるべく想われたり。之れに対する答辞は中馬島司によりて述べられたり。而して後に開宴、蓄音器の余興あり、満場溢るゝ計りの盛会なりき。
右の一行は同夜直ちに尖閣列島に向け出発せり。後にて聞けば球陽丸は六月一日尖閣列島に到り、同夜直ちに引き返して西表島に就航したる由なり。同所に於ては、高嶺朝申等の経営になれる炭坑あり、元成星炭坑と言う。抗夫四百余名を使役し、坑口五ッを開らき、成蹟は見るべきものあるが、同地に到りても、
   招待会
はありたりと也。高嶺朝申氏主催となり、炭坑■納屋頭以上、事務員等を招待して宴会は催されたるが、同席上に於ける高嶺氏の演舌は、主として炭坑の如き大人数の力によりて一の事業を営むに就ては全く関係者が皆同心一体となり、各々義務心の命ずる所によりて其の受け持ちの職分を尽す精神の旺盛なると如何と■之れによる。殊に風紀上の頽■は事業の上に痛切の関係を有するものに付、大に勤勉力行の気風を養成し、大に収入を得て、大に楽しみ、盛んに動きて、大なる成功を持ち来らすの覚悟が肝要なり云々と言うにありき。
開宴中坑夫の心利きたるものは各々隠し芸を演ずるものあり、三味線に妙なる婦人もあり、少婦の踊りは巧なるなど、各方面より、有らゆる人々の落合いたる所柄とは言え、歓声笑語絶うる時なく、苦界におって苦痛を知らず、人世の配剤至妙絶妙なるを想わしむるの外はあらざりしと也。
然るに右旅行隊は、西表島より与那国島に赴き、更らに尖閣列島に行き、去る九日又たまた当石垣島に着きたり。重なる部隊は先度見残したる牧場を視察し、騎馬に誇り、連騎徹遊など洒落たるもありて、其行楽の間彼等の磊々たるの態度は大に島民の注意を引くものありき。