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◎雲濤日記(三)二十八日午後宮古平良より 漏溪
原文表記
◎雲濤日記(三)
二十八日午後宮古平良より 漏渓
二十八日午前九時過ぎ愈々漲水灣に入る、
舩中の談話は尚ほ未尽き不申候、一行中の明星たるべき恒藤博士は其の該博なる學説上の談片を續け居候、
氏は熱帯地方の天然は旱害の巳むなきものあることなど述べ且
つ本縣の如き、又た其の旱害不時に應ずるの貯蓄はなかるべからず云々との論述を試みおる中錨は下されの船の四周は傳馬船にて取巻かれ居申候、
我等一行を乗せたる傳馬船の掉取等は那覇首里の言語を解する能はざるもののみにて候得共尚ほ且つ普通語を繰ることは出來、又た克く之れを解する殊勝の人民にて御座候、
後にて聞けば本島の言語は語脉が内地語に近く克く之れに習熟するの便宜を有せりとのことに候、小學校二年位にても相當普通語を繰り居申候、掉取等の普通語に熟れたる又敎育普及の結果なるべく存候
今日は地久節にて小學校女子中には帝國々旗の高く明かに飜り居候も一興に御坐候、一群の女生徒が敎員の一隊に率ゐられ濱邊■遠く逍遥するも少なからぬ見物にて候、ァヽ帝國南邊の地方よ、文化の花は業己に爾の胸に開けんとするものあるを知らずや橋口島司に導かれて島廳を見る、建坪六七十坪もあるべし、天井裏より以下床まで大凡二間はあるべく、全部美事なる杉材にて萬事結搆熱帶地方向きに造られ、此の地方にては高壯とでも許せねば一寸間に合ふべき形容詞はなかるべきかと想はれ申候、■島聽の四圍には數百軒の芭蕉栽へ附あり候見事に肥熟せり島司は曰く、自分は今後屋敷の寸地を餘すことなく、桑・芭蕉の植栽を奬勵し、更らに交趾種の家■の繁殖を計る積なりと、未だ盡さずと雖も猶ほ以て善言となすに足らんか
聞く所によれは當地上布も追々と品揃ひ、其の製品も一年七千餘反を出し、黒糖の二萬餘挺、麥と粟も相當に出來候由、上陸匇々未だ深くは探險致さず候得共、宮古全島經營餘地は尚ほ充分に可有之哉に見受け候、寧ろ全島の其の未成品たるべく存ぜられ申候只だ驚くべきは當地小金の貸借に利息の高きことに候、即ち一圓の日歩五銭にて貸借行はれ候とのこと也、宮古島應
の在る所、平良の一村は戸数大凡二千餘戸と申候、所謂全島中首腦の地にて有之、離島の分在としては、町家も多少目ぼしきのを扣へ居候、就中反布の如き聊か目に附くものも有之樣に想はれ申候、宮古一郡輸出は太凡三拾萬圓に達すべく輸入は太凡五萬圓と見て可なり、稅金が直接間接を合せて約五拾萬圓とせば是等を差引ひて輸入は拾四萬の超過あるべし、四萬五千の人口に割當て一人三圓計りの稼ぎ溜りと相成申候、斯くて全島人民の生活か向上し來るにつれ、店頭の賑ふべき豫兆は此の中に見ること■得べしと在候、那覇首里より移住せる■の而して其の那覇の内にても垣の花より來れるもの互は割■して商權を張り居■との事に候併し是等は皆な當地の商權を掌握せるやに及聞申候、之れは勢の然らしむるものにて、斯業に經險あり金力あるものが、斯業界の立場を占むるは古今東西同一轍の義■御承知相成度候、移して以て那覇、首里實業家諸君の他山の石とも相成可申書添申候
宮古と申せば縣下の冀北にて良馬を産する地方にて候殊に其の飼養に容易なるは八重山産に勝り、且つ其の駿足なるに於て乗馬に適することは、沖繩本島愛馬家の語る所に候、本島には砂川村に牧塲はあれども牛のみを飼養し馬は民家にて飼養しするのみ町内時々藁の房にて目遮したる處女馬の在るを見る、浮世に慣れぬ彼女等は、如何にも殊勝らしく、頭を垂れ、目をのみパチパチ致させ居申候、小生之を見て古人馬を詠するの句二首を想ひ出し候
誰遺生駒玉作鞍 春來苜循編春山
自知不入黄魔伏 振■長鳴出帝關
峻嶒高聳骨如山 遠放春郊苜蓿間
百戰沙塲汁流血 夢魃猶在玉門關
宮古の馬に百戰沙塲の感を將ち來らしむること到底能はざるべく候、■郊苜宿の間を去りて峻嶒山の如く瘦骨高く聳ふる時、千里尚ほ伏攊の慨あるや如何
宮古全島人口は四萬五千にて四ヶ村を成し居候、宮古本島を三村に分ち各離島を之れれに附け多良間の一島を以て一村を作り候是等に附属する字三拾六、全郡戸数八千五百八拾一戸の内士族は三千二百五十の多きを占め居申候宮古郡内人心强ちに平穩なりを能はざるもの三分の一以上を占め居る士族てふ遊食者の多きに歸せざるべからず■論家の多く有志家者の盛なるも士族先生の跋扈なるのみ吾人は仝島人民に此の士族根性の擊滅を希望し、遊食座談の弊を洗つて勤労の人民たらんことを祈らざるを得ず候平良の小學校は見事なものに候、此處に南校と北校とあり、共に高等尋常併置也と及聞申候、北校は女子部に屬し殊に壮大の觀あり候、裁判所、稅務署も田舎にしては相當な結搆に御座候、要するに當地に於て見事と云ふべきもの若し之れありとせば、其は島廳と小學校にて可有之候、就中島廳は結搆に候、南邊の離島經營の一泒遺官たる橋口老體の晩年を慰むるもの此の一建築物あるのみと在候當地の地層は元始時代より第三期に屬するとのことに候、之れは恒藤博士の談話なり、珊瑚礁層の極たるへきもの之を証する由に候、其化石の地層三四尺にも及びたるあり候、其の發育は見事なりなど申居られ候此の地層は沖繩本島より漸や古とき時代の形成に屬する趣きに候
現代仮名遣い表記
◎雲涛日記(三)
二十八日午後宮古平良より 漏渓
二十八日午前九時過ぎ、愈々漲水湾に入る、船中の談話は尚ほ未尽き不申候。
一行中の明星たるべき恒藤博士は、其の該博なる学説上の談片を続け居候。氏は、熱帯地方の天然は旱害の巳むなきものあることなど述べ、且つ本県の如き又た其の旱害不時に応ずるの貯蓄はなかるべからず云々との論述を試みおる中、錨は下され船の四周は伝馬船にて取巻かれ居申候。
我等一行を乗せたる伝馬船の掉取等は、那覇首里の言語を解する能はざるもののみにて候得共。尚お且つ普通語を操ることは出来、又た克く之を解する殊勝の人民にて御座候。後にて聞けば、本島の言語は語脉が内地語に近く、克く之れに習熟するの便宜を有せりとのことに候。小学校二年位にても相当普通語を繰り居申候、掉取等の普通語に熟れたる又教育普及の結果なるべく存候。
今日は地久節にて、小学校女子中には帝国々旗高く明かに飜り居候も一興に御座候。一群の女生徒が教員の一隊に率いられ、浜辺■遠く逍遥するも少なからぬ見物してます。アヽ帝国南辺の地方よ、文化の花は業己に爾の胸に開けんとするものあるを知らずや。橋口島司に導かれて島庁を見る、建坪六七十坪もあるべし、天井裏より以下床まで大凡二間はあるべく、全部美事なる杉材にて万事の結構熱帯地方向きに造られ、此の地方にては高壮とでも許せねば一寸間に合うべき形容詞はなかるべきかと想はれ申します。■島庁の四囲には数百軒の芭蕉栽え付あり候見事に肥熟せり。島司は曰く、自分は今後屋敷の寸地を余すことなく、桑・芭蕉の植栽を奨励し、更らに交趾種の家■の繁殖を計る積なりと。未だ尽さずと雖も猶ほ以て善言となすに足らんか。
聞く所によれば当地上布も追々と品揃い、其の製品も一年七千余反を出し、黒糖の二萬余挺、麥と粟も相当に出来候由、上陸匇々未だ深くは探検致さずではありますが、宮古全島経営余地は尚お充分に可有之哉に見受け候。寧ろ全島其の未成品たるべく存ぜられ申します、只だ驚くべきは当地小金の貸借に利息の高きことです、即ち一円の日歩五銭にて貸借行はれますとのこと也。
宮古島庁の在る所、平良の一村は戸数大凡二千余戸と申候、所詮全島中脳の地にて有之、離島の分在としては町家も多少目ぼしきのを扣へ居候。就中反布の如き聊か目に附くものも有之様に想はれ申候、宮古一郡輸出は太凡三十万円に達すべく輸入は太凡五万円と見て可なり。税金が直接間接を合せて約五十万円とせば、是等を差引ひて輸入は十四万の超過あるべし、四万五千の人口に割当て一人三円計りの稼ぎ溜りとなりました。斯くて全島人民の生活が向上し来るにつれ、店頭の賑うべき予兆は此の中に見るこを■得べしと存じます、那覇首里より移住せる■の而して其の那覇の内にても垣の花より来れるもの、互に割■して商権を張り居■との事に候。併し是等は皆な当地の商権を掌握せるやに及聞き申します、之は勢の然らしむるものにて斯業に経験あり金力あるものが、斯業界の立場を占むるは古今東西同一轍の義■御承知なりました。移して以て那覇、首里実業家諸君の他山の石とも相成可申書添申します。
宮古と申せば縣下の冀北にて良馬を産する地方にてです。殊に其の飼養に容易なるは八重山産に勝り、且つ其の駿足なるに於て乗馬に適するとは、沖縄本島愛馬家の語る所にです。本島には砂川村に牧場はあれども牛のみ飼養するのみ、町内時々藁の房にて目遮したる處女馬の在るを見る。浮世に慣れぬ彼女等は、如何にも殊勝らしく頭を垂れ目をのみパチパチ致させ居申します。小生之をみて古人馬を詠するの句二首を想ひ出します
誰遺生駒玉作鞍 春来苜循編春山
自知不入黄魔伏 振■長鳴出帝関
峻嶒高聳骨如山 遠放春郊苜蓿間
百戦沙場汁流血 夢魃猶在玉門関
宮古の馬に百戦沙場の感を将ち来らしむること到底能はざるべくです、■郊苜宿の間を去りて峻嶒山の如く瘦骨高く聳ふる時、千里尚お伏攊の慨あるや如何。
宮古の全島人口は四萬五千にて四ヶ村を成し居候。宮古本島を三村に分ち、各離島を之れに附け多良間の一島を以て一村を作り候。是等に附属する字三十六、全郡戸数八千五百八拾一戸の内士族は三千二百五十の多きを占め居申します。宮古郡内人心強ちに平穏なりを能はざるもの三分の一以上を占め居る、士族てふ遊食者の多きに帰せざるべからず、■論家の多く有志家者の盛なるも士族先生の跋扈なるのみ。吾人は、同島は民に此の士族根性の撃滅を希望し、遊食座談の弊を洗って勤労の人民たらんことを祈らざるを得ずです。
此処に南校と北校とあり、共に高等尋常併置也と及聞申します。北校は女子部に属し殊に壮大の観あります。裁判所、税務署も田舎にしては相当な結構に御座います。要するに当地に於て見事と云ふべきもの若し之れありとせば、其は島庁と小学校にて可有之候。就中島庁は結構です、南辺の離島経営の一泒遺官たる橋口老体の晩年を慰むるもの、此の一建築物あるのみと存じます。当地の地層は元始時代より第三期に属するとのことです、之れは恒藤博士の談話なり、珊瑚礁層の極たるべきもの之を証する由にです。其化石の地層三四尺にを及びたるあります、其の発育は見事なりなど申居られます、此の地層は沖縄本島より漸や古るき時代の形成に属する趣きにです。