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◎宮古通信二十九日發 漲水子

掲載年月日:1908/6/5(金) 明治41年
メディア:琉球新報社 3面 種別:記事

原文表記

◎宮古通信 二十九日發 漲水子
去る二十八日午前九時過き漲水灣頭、球陽丸の姿見ゆると共に、出覇中の橋口島司、本村書記、那覇首里の紳士外に尖閣列島視察の途にある農學博士恒藤氏の一行を携へ傳馬船に打ち乗り歸廳相成申候、一行中球陽丸所属廣運會社の重役小嶺幸之、古賀辰四郞の両氏あり、外に沖繩銀行■役高嶺朝申氏、丸一店の支配人渡久地政瑚氏あり、縣廳よりは玉城技手、眞境名安興氏あり、琉球及び沖繩の両新聞記者、大久保中學校長もあり、島廳吏員の出迎えを受け島廳及學校を一覽したるが、午後四時頃よりは
  廣運會社の招侍會
 あり候、當日仝會社より招侍狀を發したるは、七拾餘通と及聞申候、来賓は島廳員始め何れも當地の各荷主、知名の人々にして病氣其の外巳むを得ぬ故障あるものゝ外、悉く其の宴会塲に集まり申候
宴會塲は平良町中最とも高壯なる建築物たる高等尋常小學校(北校)の一部を以て充られ申候定刻に至りて仝會社の取締役小嶺幸之助氏塲の中央に立ち、一塲の挨拶をなせり、而して其の要旨左の如し
抑も本會社の所属船球陽丸が初めて御當地を伺ひましたのは明治二十一年の頃なりしと覺ふ、爾来両三回は先島航路を試みたることあるも、沖繩大阪間の航路に從ふとゝなりてより、久しく御無沙汰に打ち過し居るの有樣なりしが、其の後大阪航路に各會社の汽舩の使用せらるゝもの次第に其の數を增し來り、本會社の如きも廣運丸を買ひ入れる等のことあ■、隨て先島航路を開くの時期到來せ■■なし、去る三十九年より我が球陽丸は再び御地を始めとし、八重山地方に御伺ひすることゝなりましたのであります、然るに當時は大阪商船の臺灣經過船も御當地に■寄り、舊開運會社の仁壽丸は命令航路として月に幾回かの寄港をなして居ましたが既に、球陽丸と合はせて都合三隻の汽船は入り變り立ち變はり御地を伺ふ有樣にてありしが、其の後事情ハ一變して仁壽丸は來らずなり、我が球陽丸■命で就航を取ることとなり大阪商船の宮島丸が月に一回立寄との外、我が球陽丸は月に三回寄港することとなりました次第に■、此の■■なじみの經歷を有する本會社■所属の一汽舩は又た又た御地に對しては密切なる關係を有するをとなりましたが是れ翆べてに御當地實業家諸君を始めとし、荷主、島廳、村役塲の方々の年来厚き御引立によることとを深く感謝罷在る所であります、就きましては不肖私が此の航路の視察をして始めて御當地に參りました■機會をし、御挨拶を兼ね今日迄の御礼を申述へ且つ將來の御厚誼を願ひ、且つ倍舊の御親しみを希望いたします云々
橋口島司之れに對し挨拶をなし、後開宴となり、主客打ちくつろぎて驩談笑語献酬湧くが如きの盛會にて候散會したるは午後七時を過ぎたらんと存じ候開宴中大聲蓄音器は頻■に百人藝を演じて塲内を賑はせり
散會■橋口島司の招待あり、恒藤博士を始め廣運會社の重役、沖繩銀行の高嶺氏、丸一店の支配人、両新聞記者等、島廳内の會議室に集まり盛大なる餐宴の催しありしが、島司の元氣旺盛なると、其の愛嬌なる■には一同感服の外なかりしが如く見受申候仝宴會は殆と徹宵の有樣にて盛興湧くが如きの觀あり候右にて一般御想像被下度候
以上

現代仮名遣い表記

◎宮古通信 二十九日発 漲水子
去る二十八日午前九時過ぎ、漲水湾頭、球陽丸の姿見ゆると共に、出覇中の橋口島司、本村書記、那覇首里の紳士外に尖閣列島視察の途にある農学博士恒藤氏の一行を携へ、伝馬船に打ち乗り帰庁相成申候。一行中球陽丸所属広運会社の重役小嶺幸之、古賀辰四郎の両氏あり、外に沖縄銀行■役高嶺朝申氏、丸一店の支配人渡久地政瑚氏あり、県庁よりは玉城技手、真境名安興氏あり。琉球及び沖縄の両新聞記者、大久保中学校長もあり。島庁吏員の出迎えを受け島庁及学校を一覧したるが、午後四時頃よりは
  広運会社の招待会
あります。当日同会社より招待状を発したるは七十余通と及聞申します。来賓は島庁員始め何れも当地の各荷主、知名の人々にして、病気其の外巳むを得ぬ故障あるものの外、悉く其の宴会場に集まり申候。宴会場は、平良町中最とも高荘なる建築物たる高等尋常小学校(北校)の一部を以て充られ申します。定刻に至りて同会社の取締役小嶺幸之助氏場の中央に立ち、一場の挨拶をなせり、而して其の要旨左の如し。
 抑も本会社の所属船球陽丸が初めて御当地を伺いましたのは、明治二十一年の頃なりしと覚ふ、爾来両三回は先島航路を試みたることあるも、沖縄大阪間の航路に従うととなりてより久しく御無沙汰に打ち過し居るの有様なりしが、其の後大阪航路に各会社の汽船の使用せらるるもの次第に其の数を増し来り、本会社の如きも広運丸を買ひ入れる等のことあ■、随て先島航路を開くの時機到来せ■■なし、去る三十九年より我が球陽丸は再び御地を始めとし、八重山地方に御伺ひすることとなりましたのであります。然るに、当時は大阪商船の臺灣経過船も御当地に■寄り、旧開運会社の仁寿丸は命令航路として月に幾回かの寄港をなして居ましたが既に、球陽丸と合わせて都合三隻の汽船は、入り変り立ち変わり御地を伺う有様にてありしが、其の後事情に一変して仁寿丸は来らずなり、我が球陽丸■命で航路を取ることとなり、大阪商船の宮島九が月に一回立寄との外、我が球陽丸は月に三回寄港するをとなりました。次第に■、此の■■なじみの経歴を有する本会社■所属の一汽船は、又たまた御地に対しては密切なる関係を有することとなりましたが、是れ翆べてに御当地実業家諸君を始めとし、荷主、島庁、村役場の方々の年来厚き御引立によることと、深く感謝罷在る所であります。就きましては、不肖私が此の航路の視察をして始めて御当地に参りました■機会とし、魚挨拶を兼ね今日迄の御礼を申述べ、且つ将来の御厚誼を願い、且つ倍旧の御親しみを希望いたします云々。
橋口島司之れに対して挨拶をなし、後開宴となり、主客打ちくつろぎて驩談笑諾献酬湧くが如きの盛会にて候。散会したるは午後七時を過ぎたらんと存じます。開宴中大声蓄音器は頻■に百人芸を演じて場内を賑わせり。
散会■橋口島司の招待あり、恒藤博士を始め広運会社の重役、沖縄銀行の高嶺氏、丸一店の支配人、両新聞記者等、島庁内の会議室に集まり盛大なる饗宴の催しありしが、島司の元気旺盛なると、其の愛嬌なる■には一同感服の外なかりしが如く見受申します。同宴会は殆と徹宵の有様にて盛興湧くが如きの観ありです。右にて一般御想像被下度候、
以上