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◎雲濤日記 (一)球陽丸船室にて 漏溪
原文表記
◎雲涛日記(一)
球陽丸船室にて
五月二十七日 午后三時 漏渓
古賀辰四郞氏の經營に屬する尖閣列島視察の爲め小生が二年前の舊識球陽丸に乘込み只今より那覇港出帆仕候球陽丸は小生が明治三十九年三月十七日を以て大阪出發初めて縣地に參るとき賃乘したる舊友に御座候、當時仝舩は鹿兒島より大島を經て德の島、永良部島等に寄港し、珍らしき風光を小生に紹介したる恩人の御座候、爾來球陽丸とし云へは何となく、なつかしく感せられ、左三ッ巴の赤色旗が彼女の檣頭に飜る時、必ず會遊想出の種と相成候、今まや再び仝船に乘込み、尖閣列島の視察途に上るに方り、仝船の航路が宮古、八重山、を經て帝的地に渡り更に縣下の南端なる、否な自國母國の南端たる與那國島にまで彼の女の翼を延ばすと聞きては、彼女と小生とか旅情の慇懃なること一日の故にあらず候
此の行に就き可申上事は一ならす候、行季匇々の際に候先つは左にまで申述候
古人句あり曰く「書冊埋頭何日了、不如投げ抛却去尋春」を小生の今日必らずしも書冊に頭埋むる程のものに無之候得共、時折々には多忙なる編輯室裡を去りて、紅緣の新を見るべく、面目を變換し來るの必要もなきにあらず候、果してしらず、一行二旬の行程、開け來る所のものは雲耶山耶、呉耶越耶、何れば、尖閣列島其の他島嶼の風光は、新報紙上御通信可致候
我等の一行は、列島の經營者古賀氏、丸一店の渡久地氏、沖繩銀行の高嶺朝申氏、廣運會社の小嶺幸之氏、縣立中學校の大久保校長、縣廳よりは玉城技手を始めとして、燐鑛博士として有名なる恒藤氏は素より、一行中の主なる人に御座候。
古賀氏以外は一人として先島を知りたる人は無座候、此の行列島開闢以來の大旅行の事にて候舩中にては既に奇談の多くを及聞候
現代仮名遣い表記
◎雲涛日記(一)
球陽丸船室にて
五月二十七日 午後三時 漏渓
古賀辰四郎氏の経営に属する尖閣列島視察の為め、小生が二年前の旧識球陽丸に乗込み只今より那覇港出帆仕候。球陽丸は、小生が明治三十九年三月十七日を以て大阪出発、初めて県地に参る時賃乗したる舊友に御座候。当時同船は鹿児島より大島を経て徳之島、永良部島等に寄港し、珍らしき風光を小生に紹介したる恩人に御座候。爾来球陽丸とし云えば何となく、なつかしく感じられ、左三ッ巴の赤色旗が彼女の檣頭に翻る時、必らず曾遊想出の種と相成候。今まや再び同船に乗込み、尖閣列島視察の途に上るに方り、同船の航路が宮古、八重山を経て帝的地に渡り更らに縣下の南端なる、否な自国母国の南端たる与那国島にまで彼の女の翼を延ばすと聞きては、彼女と小生とが旅情の慇懃なること一日の故にあらず候。此の行に就き可申上事は一ならす候、行季匇々の際に候先づは左にまでも申述候。
古人句あり曰く「書冊埋頭何日了、不如抛却去尋春」と、小生の今日必らずしも書冊に頭を埋める程のものに無之候得共、時折々には多忙なる編集室裏を去りて、紅緑の新を見るべく、面目を変換し来るの必要もなきにあらず候。果してしらず、一行二旬の行程、開け来る所のものは雲耶山耶、呉耶越耶、何れは、尖閣列島其の他島嶼の風光は、新報紙上御通信可致候。
我等の一行は、列島の経営者古賀氏、丸一店の渡久地氏、沖縄銀行の高嶺朝申氏、広運会社の小嶺幸之氏、県立中学校の大久保校長、県庁よりは玉城技手を始めとして、燐鉱博士として有名なる恒藤氏は素より一行中の主なる人に御座候。古賀氏以外は一人として先島を知りたる人は無座候、此の行列島開闢以来の大旅行の事にて候船中にては既に奇談の多くを及聞候。