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◎縣下に於ける本年の鰹漁業(上) 

掲載年月日:1905/12/29(金) 明治38年
メディア:琉球新報社 3面 種別:記事

原文表記

◎縣下に於ける本年の鰹漁業(上)
▲玉城(五郎)技手の談
◎兼て報道せし通り、鰹漁業が本縣に於て、明治三十五年始めて慶良間島民に依て開營せられし以來、各地に勃興するになつた今本年中の斯業計營に對し、予の意見を述べ聊(いささ)か注意を促さうと思ふ
◎勿論營業者の多きは慶良間島であるが、同島に本年從業せし船數が十二隻、喜屋武、糸滿、大嶺、垣花に各一隻、那覇古賀氏の船二隻、本部に一、大宜味に三、宜名眞及び奥村に各一隻、都合二十四隻であるが、外に宮崎其他より慶良間に出稼せしもの四隻ありて、合計二十八隻である。
◎慶良間島船は何れも同島近海にて四月より十月まで從業し其収穫高座間味船四隻で九千百二十三圓、阿嘉船二隻で一千九百二十圓、慶留間船二隻で四千八百八園阿波連船二隻で六百六十五圓外に座間味村と糸滿■との組合船が一隻で一千二百五十圓である
◎喜屋武村の船は未だ不熟練ながら一人の敎師も雇はす且つ多く自分の土地にて從業せし結果甚だ不成績んて僅か四五圓の収穫しかなかった
◎糸滿船は昨年四名の敎師を聘しながら充分の利益を上げさりし爲め本年は十に八九廢業の境遇に到りしも二三の有志相計りて「是迄は村に近き所にて営みし■船子にして下船する物多く爲に不結果を來せし譯慣れは此度只遠き所に行くべし」とて与那国島に遠征を企たてそうだか成績稍良好にて二千八百二十八圓の収穫かあつた
◎大嶺及び垣花船は漁期後(おく)れではあつたが、大嶺は敎師二人相雇ひ、慶良間及び所々を奔走せし結果、九百四五圓垣花船は本部近海にて從業し三百八十圓の収獲あり
那覇古賀氏の船は二隻とも六月より十月迄慶良間島に於て三千八百六十圓の収獲があつた。
◎本部船は是亦敎師を雇はす且つ自己の處にて從業せし爲に僅に百四十圓の収穫ありしのみ大宜味間切根路銘大宜味両村の組合船は一人の敎師を雇ひ四月より十月迄遠く大島及宜名眞海に於て二千五十圓の収穫あり其他大宜味船及塩屋船は各一人の敎師ありて九月迄則ち僅か一ヶ月の間に宜名眞海に於て大宜味船は二百圓塩屋船は三百圓の収穫ありたりと云ふ宜名眞船は是亦敎師なし且つ自己の處にて従業せし爲め僅か百八十九圓の収穫ありしのみなるも奥村は三名の敎師ありし爲め同村に海にて一千肋百圓の収穫があつた
◎而にして慶良間島に出稼し來りし宮崎縣船三隻の何れも大量にて平均三千七百拾三圓の収穫あり又大島郡より來りし船も三千二百五十圓の収穫ありて其内最も大漁なりしは濱出弥兵次の船にして六千二百位の収穫があつたそうである

現代仮名遣い表記

◎県下に於ける本年の鰹漁業(上)
▲玉城(五郎)技手の談
◎兼て報道せし通り、鰹漁業が本県に於て明治三十五年始めて慶良間島民に依て開営せられし以来、各地に勃興するになった。今本年中の斯業計営に対し、予の意見を述べ聊(いささ)か注意を促そうと思う。
◎勿論、営業者の多きは慶良間島であるが、同島に本年従業せし船数が十二隻、喜屋武、糸満、大嶺、垣花に各一隻、那覇古賀氏の船二隻、本部に一、大宜味に三、宜名真及び奥村に各一隻、都合二十四隻であるが、外に宮崎其他より慶良間に出稼せしもの四隻ありて、合計二十八隻である。
◎慶良間島船は、何れも同島近海にて四月より十月まで従業し、其収穫高座間味船四隻で九千百二十三円、阿嘉船二隻で一千九百二十円、慶留間船二隻で四千八百八円、阿佐船一隻で一千二百五円、阿波連船二隻で六百六十五円、外に座間味村と糸満■との組合船が一隻で一千二百五十円である。
◎喜屋武村の船は、未だ不熟練ながら一人の教師も雇わず、且つ多く自分の土地にて従業せし。結果甚だ不成績にて、僅か四五円の収穫しかなかった。
◎糸満船は昨年四名の教師を聘しながら、充分の利益を上げさりし為め本年は十に八九廃業の境遇に到りしも、二三の有志相計りて「是迄は村に近き所にて営みし■、船子にして下船する物多く為に不結果を来せし訳慣れば、此度只遠き所に行くべし」とて与那国島に遠征を企たてそうだが、成績稍良好にて二千八百二十八円の収穫があった。
◎大嶺及び垣花船は漁期後(おく)れではあったが、大嶺は教師二人相雇い、慶良間及び所々を奔走せし結果、九百四五円。
 垣花船は、本部近海にて従業し三百八十円の収獲あり。
 那覇古賀氏の船は、二隻とも六月より十月迄慶良間島に於て三千八百六十円の収獲があったそうである。
◎本部船は是亦教師を雇わず、且つ自己の処にて従業せし為に、僅に百四十円の収穫ありしのみ。大宜味間切根路銘大宜味両村の組合船は一人の教師を雇い、四月より十月迄遠く大島及宜名真海に於て、二千五十円の収穫あり。其他大宜味船及塩屋船は各一人の教師ありて、九月迄則ち僅か一ヶ月の間に宜名真海に於て大宜味船は二百円、塩屋船は三百円の収穫ありたりと云う。宜名真船は、是亦教師なし且つ自己の処にて従業せし為め、僅か百八十九円の収穫ありしのみなるも、奥村は三名の教師ありし為め、同村に海にて一千六百円の収穫があった。
〇而して、慶良間島に出稼し来りし宮崎県船三隻の何れも大量にて、平均三千七百八拾三円の収穫あり。又大島郡より来りし船も三千二百五十円の収穫ありて、其内最も大漁なりしは濱出弥平次の船にして、六千二百位の収穫があったそうである。