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◎八重山群島(三)

掲載年月日:1905/8/5(土) 明治38年
メディア:琉球新報社 2面 種別:記事

原文表記

◎八重山群島 (三)
 開墾事業の狀况(續)
▲伊野田開墾地 仝地は宮良間切桃里村の在り去二十五年以來今日に至る仝地の開墾地は都合三ヶ所ありて即ち第一は仝五年十一月鹿兒島縣大島郡名瀬方朝仁村葛謙榮外九名か一人五町歩宛の開墾許可を得て移住せるものにして最初は製鹽業を營みて生活を爲し翌廿六年春より初めて開墾に着手して四叚八畝歩を拓き内一反八畝は山藍、二反の甘藷を植付け殘一反歩を以て宅地に宛て爾■同業者吉野甚静と共同組合を爲し數名の勞働者を使役し着々開墾に從事しつゝありて現在戶數十四、勞働者男女合せて四十餘名もありて農作物は山藍、甘蔗、甘藷なあり第二は明治廿八年四月高知縣長岡郡豊岡村の田中悦馬か五十町歩の開墾許可を得たるものにして同二十九年に移住して開墾に着手し七町歩餘を拓き甘藷山藍等を栽培せり現住戶數三、勞働者男■■女二名あり第三は明治三十一年以降東京府其他の人か開墾の許可を得て移住し來れるものにして勞働者の現住戶數廿四、人口男十七名、女十一名ありて農作物は山藍甘藷甘蔗、等なる以上開墾地の作付総反別十八町歩反歩にして昨年の製糖品白下十五挺(一挺百八十斤人)黒糖十一挺(一挺百三十斤人)を出せり要するに當開墾地は資本乏しく事業の規模小なる爲め名藏開墾地に比し僅々として振はさるの觀ありと雖ども當業者の終始熱心なるは仝開墾地の特色にして尙ほ目前の艱難に屈せず將來の利益に着目して益々奮勵せば他日成功疑なし
▲スーナの開墾 同開墾地は固と尙家の經營に係かり一時首里邊より多數の老夫を移住せしめ大設計をたてゝ開墾に着手せしも故あつて中途に事業の頓挫を來たし其移住者中或は去つて他に轉ずるものあり或は又留まつて屈せず開墾に從事せるものありて漸次事業の進捗を圖り今日に於ては戶數二十三戶殆んど一村の状を爲し各戶耕地より穫る所の作物を以て優に生計を營み尙ほ前途益々多望の目途を有するに至れり

現代仮名遣い表記

◎八重山群島 (三)
 開墾事業の状况(続)
▲伊野田開墾地 同地は宮良間切桃里村の在り、去二十五年以来今日に至る同地の開墾地は、都合三ヶ所ありて即ち第一は同五年十一月鹿児島県大島郡名瀬方朝仁村葛謙栄外九名が、一人五町歩宛の開墾許可を得て移住せるものにして、最初は製塩業を営みて生活を為し翌二十六年春より、初めて開墾に着手して四叚八畝歩を拓き、内一反八畝は山藍、二反の甘藷を植付け残一反歩を以て宅地に宛て爾■、同業者吉野甚静と共同組合を為し数名の労働者を使役し、着々開墾に従事しつつありて、現在戸数十四、労働者男女合せて四十余名もありて、農作物は山藍、甘蔗、甘藷なあり。第二は明治二十八年四月高知県長岡郡豊岡村の田中悦馬が五十町歩の開墾許可を得たるものにして、同二十九年に移住して開墾に着手し、七町歩余を拓き甘藷山藍等を栽培せり現住戸数三、労働者男■■女二名あり。第三は明治三十一年以降東京府その他の人が開墾の許可を得て移住し来れるものにして、労働者の現住戸数二十四、人口男十七名、女十一名ありて農作物は山藍、甘藷、甘蔗等なる以上開墾地の作付総反別十八町歩反歩にして、昨年の製糖品白下十五挺(一挺百八十斤人)黒糖十一挺(一挺百三十斤人)を出せり。要するに当開墾地は資本乏しく事業の規模小なる為め、名蔵開墾地に比し僅々として振はさるの観ありと、雖ども当業者の終始熱心なるは同開墾地の特色にして、尚お目前の艱難に屈せず将来の利益に着目して益々奮励せば他日成功疑なし。
▲スーナの開墾 同開墾地は固と尚家の経営に係かり、一時首里辺より多数の老夫を移住せしめ大設計をたてて開墾に着手せしも故あって、中途に事業の頓挫を来たしその移住者中或は去って他に転ずるものあり或は又留まって屈せず、開墾に従事せるものありて漸次事業の進捗を図り、今日に於ては戸数二十三戸殆んど一村の状を為し各戸耕地より穫る所の作物を以て優に生計を営み、尚お前途益々多望の目途を有するに至れり。