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◎八重山群島
原文表記
◎八重山群島
開墾事業の概况(續)
▲名藏開墾地 同開墾地は奈良原男か曩に中川糖業會社より釀受けたるものにして現今小作人七十四人仝戶廿四戶あり製糖業盛にして昨年同地に■學校を創立せるの好況なり今同開墾の沼■を略叙すれは初めて同地の開墾を出願せるは去明治廿二三年頃にして出願者は他府縣人■り當時島民は開墾を拒みたるを以て縣廳へ往復數回に及ひ結局島民の開拓方法を設け其■地を他に許可する事となり同二十四年末徳島縣人中川虎之助石川縣人長山信順外拾三名へ七拾町歩を許可したりと雖も長山は着手後二ヶ年を經すして引揚ヶ中川は着々開墾を爲し鳴門■の名を以て四五拾名の勞働者を使役し二ヶ年餘も經續し來りしも収支相償いさるを以て更に之を東京府梅浦精一、殿木善衛右門等八名の協同組合となし同廿六年十二月名藏地方及其他に壹千五百町歩出願許可を得先づ名藏村に於て開墾に着手したり而して同廿八年十一月東京に於て八重山糖業株式會社なるものを■■して翌年開墾免許の權を之に移し七百餘町歩の引渡を受け中川虎之助は専務取締役として農業土木等に關する技術者及勞働人夫三百餘名を縣外より引卒し來り西洋農具一式馬丗餘頭及荷車等総て具備■第一に名藏村に着手し其原野八拾町歩を二ヶ年間に拓き專ら甘蔗を栽培し製糖は新式の小蒸汽機械を以て製造し一面海邊に向て道路を開鑿し之に壹哩以上の輕便レールを敷き尚其海邊に事務所役員詰所並に廣大なる洋式製糖塲を築造し以て巨大な機械を据付かんとの計劃中其製造塲焼失せし爲め終に機械据付の運ひに至らず其間に於て六七万圓の費用を投したるも收益を見ること能はざりしかは東京に於ては重役■■を開き■に事業中止となり爾來二三年間は跡■建物■総て中川虎之助が保管することゝなりしに命じ三十五年三月奈良原男之を釀受ける事とになれり而して其際全戶廿四戶人口七十四人にして其小作人に牛馬農具製糖具家屋等凡て給與したれば小作人■に於ては大に安堵し喜び男で勞働に從事し來たりしに隅々砂糖消費■課せられ爲めに大阪の砂糖相塲に於て下落を來たし或は又昨春以來時局の爲め滊舩の航■少くなり運賃に於て四五割増加となる等種々の故障を生したる爲め製糖業に於ても大に振ひ糖質■例年に比せは頗ふる佳良にして収穫も亦豫■多かりき其他陸稻、甘藷の如き何れも亦相當の收益ありて前途益々有望なり
現代仮名遣い表記
◎八重山群島
開墾事業の概况(続)
▲名蔵開墾地 同開墾地は奈良原男か曩に中川糖業会社より醸受けたるものにして現今小作人七十四人同戸二十四戸あり製糖業盛にして昨年同地に■学校を創立せるの好況なり今同開墾の沼■を略叙すれは初めて同地の開墾を出願せるは去明治二十二三年頃にして出願者は他府県人■り当時島民は開墾を拒みたるを以て県庁へ往復数回に及ひ結局島民の開拓方法を設け其■地を他に許可する事となり同二十四年末徳島県人中川虎之助石川県人長山信順外拾三名へ七拾町歩を許可したりと雖も長山は着手後二ヶ年を経すして引揚ヶ中川は着々開墾を為し鳴門■の名を以て四五拾名の労働者を使役し二ヶ年余も経続し来りしも収支相償いさるを以て更に之を東京府梅浦精一、殿木善衛右門等八名の協同組合となし同二十六年十二月名蔵地方及其他に一千五百町歩出願許可を得先づ名蔵村に於て開墾に着手したり而して同二十八年十一月東京に於て八重山糖業株式会社なるものを■■して翌年開墾免許の権を之に移し七百余町歩の引渡を受け中川虎之助は専務取締役として農業土木等に関する技術者及労働人夫三百余名を県外より引卒し来り西洋農具一式馬丗余頭及荷車等総て具備■第一に名蔵村に着手し其原野八拾町歩を二ヶ年間に拓き専ら甘蔗を栽培し製糖は新式の小蒸汽機械を以て製造し一面海辺に向て道路を開鑿し之に一哩以上の軽便レールを敷き尚其海辺に事務所役員詰所並に広大なる洋式製糖塲を築造し以て巨大な機械を据付かんとの計画中其製造塲焼失せし為め終に機械据付の運ひに至らず其間に於て六七万円の費用を投したるも収益を見ること能はざりしかは東京に於ては重役■■を開き■に事業中止となり爾来二三年間は跡■建物■総て中川虎之助が保管することゝなりしに命じ三十五年三月奈良原男之を醸受ける事とになれり而して其際全戸二十四戸人口七十四人にして其小作人に牛馬農具製糖具家屋等凡て給与したれば小作人■に於ては大に安堵し喜び男で労働に従事し来たりしに隅々砂糖消費■課せられ為めに大阪の砂糖相塲に於て下落を来たし或は又昨春以来時局の為め汽舩の航■少くなり運賃に於て四五割増加となる等種々の故障を生したる為め製糖業に於ても大に振ひ糖質■例年に比せは頗ふる佳良にして収穫も亦予■多かりき其他陸稲、甘藷の如き何れも亦相当の収益ありて前途益々有望なり