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◎鳥島につきて 黑岩恒

掲載年月日:1903/6/11(木) 明治36年
メディア:琉球新報社 2面 種別:記事

原文表記

◎鳥島につきて (三)     黑岩恒
此島の四周ハ殆んと絶壁である沙濱とては一ヶ所もない多くは斗大のごろごろ石を以つて断崖の下に少しの縁付をして居る假令風濤平穏にして小舟を寄するにせよ断崖數十仭攀つるに由なし其中辛ふして此島に上り得へき門戸は東西に各一ヶ所あり西にあるは「ダンノフチ」で東にあるは「ハシノハマ」なり今回ハ「ハシノハマ」に向ふて船を進めた此邊海底頗る惡しく錨を下すことが出来ない先年も錨一丁を龍宮に奉納したと云ふ話で中々危險なれは船は浪のまにまに流し置くのてある「ハンタ」と稱する斷崖上の台地には村民己の蟻の如く集つて居る「ハシノハマ」より「ハンタ」に登る坂路は非常に急峻である天南君の所謂「エリガミ」坂だ甲板から見れハ村民ハ猿の如く蟹の如く此絶崖に於ける坂路を下り始めた崖下にハ鎌倉に見る如き横穴もみれて居る船積の貨物を一時納め置く處らしい濱より傳馬を卸し始めた東南の風は益強く左舷に浪を受けるので甚危險だから余は風を眞艫に受け車濱の方へ流さんことを主張したれど舟子共は中々聞入れない「ハシノハマ」津口は仲吉朝助君が十年前に於いて九死に一生を拾たる有名の古跡中々馬鹿にならない後て聞けは車濱より島中への坂路ハ辛ふして昇降すべきも荷物を上るに由なしとの事なりき
この「ハシノハマ」は大島徳ノ島に往復する古來の津口なれは傳馬もあり「サバ子」も相應にあれど前面が一帶の暗礁なれは實に危險なり濱の沙を掘れは温泉出つ干潮の時は辛ふして汗を流し得べし
「エリガミ」坂を攀ち「ハンタ」に上がるときハ地勢一面の平臺となり村路をたどるときは馬手にハ島の中尊たる城岳聲之弓手には前岳ありて島の南端に障壁を築き城岳の南に接して鳥島村あり戸數一百本年新築の小學校あり家居甚た麁ならす外觀は中等以下に落ちす「ガジユマル」と「ウスク」の二種ハ村内に於ける主要の樹木なり「アダニ」ハ極めて少し村の南方一帶の平地は本島に於ける農地の主部にして前原「タチザシバル」等あり土壤ハ黒褐色なる壚拇(ローム)なり當時畠に在りし作物は甘藷と大豆なるも降灰の爲多少の害を被ふり居るを見る大豆は到底収穫の見込なかるべし甘藷は莖より新芽をふき漸次常態に復すべき見込あり
村の西南農地の尽くる所は悉く断崖をなし直ちに海に臨むこと尙「ハンタ」ノ方面に異ならす「タチザシバル」の西端絶崖をなす處蟻附蟹歩的の坂路ありて海濱には温泉湧出す此坂路は天南氏の所謂命崖である泉の温度は膚温位らしくあつた
「ダンノフチ」は村に上る南口である近來硫黄運輸の爲めに新路を開き居れど元來絕壁のことなれは随分苦しき磴道てある余等の一行島を引上けの節は此濱より高千穂に乘込んだ此處には「スーテー」(立神)と稱する大石柱が海岸よりずんと直立し絕つきぬき空中高く聳えて居る這は如何にも立派である元來此の石柱ハ火口壁の破れ目に吹き出したる鎔岩の固結したものである地学的の語を以て言へハ村の東方に立て居る「タミヂ」も矢張其通りである
●正誤 前號鳥島に就きての記事中二十二行の右手は左手、三十三行の左手は右手、四十七行の甲枚は甲板の誤植なり

現代仮名遣い表記

◎鳥島につきて (三)     黒岩恒
此島の四周は殆んど絶壁である、砂浜とては一ヶ所もない。多くは斗大のごろごろ石を以って断崖の下に少しの縁付をして居る。たとえ風濤平穏にして小舟を寄するにせよ断崖数十仭攀つるに由なし。其中、辛うじて此島に上り得べき門戸は東西に各一ヶ所あり、西にあるは「ダンノフチ」で東にあるは「ハシノハマ」なり、今回は「ハシノハマ」に向いて船を進めた。此辺、海底すこぶる悪しく、錨を下すことが出来ない。先年も錨一丁を竜宮に奉納したと云う話で、中々危険なれば船は浪のまにまに流し置くのである。「ハンタ」と称する断崖上の台地には村民己に蟻の如く集って居る。「ハシノハマ」より「ハンタ」に登る坂路は非常に急峻である、天南君の所謂「エリガミ」坂だ。甲板から見れば村民は猿の如く蟹の如く、この絶崖に於ける坂路を下り始めた。崖下には鎌倉に見る如き横穴もみれて居る、船積の貨物を一時納め置く所らしい。浜より伝馬を卸し始めた、東南の風は益強く左舷に浪を受けるので、甚危険だから余は風を真艫に受け車浜の方へ流さんことを主張したれど、舟子共は中々聞入れない。「ハシノハマ」津口は仲吉朝助君が十年前に於いて九死に一生を拾たる有名の古跡、中々馬鹿にならない。後で聞けば車浜より島中への坂路は辛うじて昇降すべきも、荷物を上るに由なしとの事なりき。
この「ハシノハマ」は大島徳ノ島に往復する古来の津口なれば伝馬もあり、「サバ子」も相応にあれど前面が一帯の暗礁なれば実に危険なり。浜の砂を掘れば温泉出づ、干潮の時は辛うじて汗を流し得べし。
「エリガミ」坂を攀じ「ハンタ」に上がるときは地勢一面の平台となり、村路をたどるときは、馬手には島の中尊たる城岳声之弓手には前岳ありて島の南端に障壁を築き、城岳の南に接して鳥島村あり。戸数一百、本年新築の小学校あり、家居甚だ麁ならす外観は中等以下に落ちす。「ガジユマル」と「ウスク」の二種は村内に於ける主要の樹木なり、「アダニ」は極めて少し。村の南方一帯の平地は本島に於ける農地の主部にして前原「タチザシバル」等あり。土壌は黒褐色なる壚拇(ローム)なり、当時畠に在りし作物は甘藷と大豆なるも、降灰の為多少の害を被ふり居るを見る。大豆は到底収穫の見込なかるべし、甘藷は茎より新芽をふき漸次常態に復すべき見込あり。
村の西南農地の尽くる所は尽く断崖をなし、直ちに海に臨むこと尚「ハンタ」ノ方面に異ならず、「タチザシバル」の西端絶崖をなす処蟻附蟹歩的の坂路ありて海浜には温泉湧出す。この坂路は天南氏の所謂命崖である、泉の温度は肌温位らしくあった。
「ダンノフチ」は村に上る南口である。近来硫黄運輸の為めに新路を開き居れど、元来絶壁のことなれば随分苦しき磴道である。余等の一行、島を引上げの節は此浜より高千穂に乗込んだ。此処には「スーテー」(立神)と称する大石柱が、海岸よりずんと直立し絶崖をつきぬき空中高く聳えて居る。這は如何にも立派である、元来此の石柱は火口壁の破れ目に吹き出したる鎔岩の固結したものである。地学的の語を以て言へば、村の東方に立て居る「タミヂ」も矢張其通りである。
●正誤 前号鳥島に就きての記事中二十二行の右手は左手、三十三行の左手は右手、四十七行の甲枚は甲板の誤植なり