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無人島の遺利
原文表記
無人島の遺利
琉球新報 明治三十三年六月二十五日
過日來本紙に掲載せる尖閣列島ハ八重山附近に散在せる四ヶの無人島の總稱にて其最大なるものを黄尾嶼及び釣魚台の二島とす黄尾嶼は俗に「クバ」島と唱へ釣魚台は「ヨコン」島と稱志又英國海圖誌には釣魚台を「ホアピンス」といひ黄尾嶼は「チヤウス」と名せる由なるか二島ハ共に古くより本縣人に知られしと見え癈藩前后に於て屢々淸國に往還せる美里間切筆者大城永保といへる人の話に依れハ「クバ」島ハ久米島より午未の方凡そ百里許を離れて八重山島の石垣島より凡そ六十里許の處に在りて島の大さハ長さ三十一二丁巾十七八丁もあるへく地形は久米の赤島に類せり但し赤島には久葉樹繁茂すれとも「久葉樹」は一本もなく又た「ヨコン」島ハ「クバ」島と同方位に在りて島の大さハ長さ二里巾一里計もあるべし云々其筋の調査に據るも之と大同小異なりと云ふ又た黄尾嶼(即クバ島)にハ久葉樹及ひ榕樹を産し釣魚台(即ヨコン島)にハ槇木(俗稱チャーギ)を産し中にもモチ樹(卽ヤンモチの原料)ハ滿山至る所に繁茂せりと聞く黄尾嶼と釣魚台との間に二個の小島あり「ピンネツクル、アイルス」といひて英人の名けしものにして譯して尖閣列島とは云ふなり元來尖閣列島は此二小島の名稱なりと雖とも今は黄尾嶼及ひ釣魚台と共に總稱して尖閣列島と呼ふに至れり此二小島に於てハ信天翁と稱する海鳥生息し毎年十月頃より二三月迄の間ハ産卵の時期にて群集し來るかゆへに之を捕獲すること太だ容易にして一人一日に三百羽を捕獲し得べしとなり其背の毛ハ一斤三十錢の割合にて神戸へ輸出し得へし而して四羽にて凡そ一斤程の背毛を得へしとの事なれは一日に一人にて三百羽を捕獲し得るとすれは其金額凡そ二十一圓五十錢の割合にして實に驚くへき利潤にあらずや仝島は目下古賀辰四郞氏の借用地となれり
現代仮名遣い表記
無人島の遺利
琉球新報 明治三十三年六月二十五日
過日来本紙に掲載せる尖閣列島は八重山附近に散在せる四ヶの無人島の総称にて、其最大なるものを黄尾嶼及び釣魚台の二島とす。黄尾嶼は俗に「クバ」島と唱え、釣魚台は「ヨコン」島と称し、又英国海図誌には釣魚台を「ホアピンス」といい、黄尾嶼は「チャウス」と名せる由なるが、二島は共に古くより本県人に知られしと見え、廃藩前後に於て屢々清国に往還せる。美里間切筆者大城永保といえる人の話に依れば「クバ」島は久米島より午未の方凡そ百里許を離れて、八重山島の石垣島より凡そ六十里許の処に在りて、島の大さは長さ三十一、二丁、巾十七、八丁もあるべく、地形は久米の赤島に類せり。但し赤島には久葉樹繁茂すれども「久葉樹」は一本もなく、又た「ヨコン」島は「クバ」島と同方位に在りて島の大さは長さ二里巾一里計もあるべし云々。其筋の調査に拠るも之と大同小異なりと言う。又た黄尾嶼(即クバ島)には久葉樹及び榕樹を産し、釣魚台(即ヨコン島)には槇木(俗称チャーギ)を産し、中にもモチ樹(即ヤンモチの原料)は満山至る所に繁茂せりと聞く。黄尾嶼と釣魚台との間に二個の小島あり。「ピンネツクル・アイルス」といいて英人の名けしものにして訳して尖閣列島とは言うなり。元来尖閣列島は此二小島の名称なりと雖ども、今は黄尾嶼及び釣魚台と共に総称して尖閣列島と呼ぶに至れり。此二小島に於ては信天翁と称する海鳥生息し、毎年十月頃より二、三月迄の間は産卵の時期にて群集し来るがゆえに、之を捕獲すること太だ容易にして一人一日に三百羽を捕獲し得べしとなり。其背の毛は一斤三十銭の割合にて神戸へ輸出し得べし。而して四羽にて凡そ一斤程の背毛を得べしとの事なれば、一日に一人にて三百羽を捕獲し得るとすれば其金額凡そ二十一円五十銭の割合にして、実に驚くべき利潤にあらずや。同島は目下古賀辰四朗氏の借用地となれり。