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●漂流談
原文表記
●漂流談(承前)
三洲港に留まる五日にして年頃六十許りの老翁來り訪ふ同地役所の長なり慰籍最も至り且つ余の船を見て、之れにては福健までは至られまじ修覆を加へてやらんとて工人を召して船の内外に白のペンキを塗らしめたり九日目の夜順風となりしかば同港を出帆せんとせしに五百順許りの帆前船一艘に兵士二十四名仕宮二名乘り込みて余等の船に前後し一名の下士官とも覺しきは余の船の水先となりて案内せり蓋し上官の命を受けて余等を護送するなり其夜は北家と云へる所に一泊し翌朝に至れば一艘の帆前船あり福健の船なりと云ふ前の船と共に余等の船を護り翌日午後一時頃福健の川に入れり翌日福健の船なる士官一名と兵士二名余を港に送る風あしくして進まず日没頃漸く達す同夜は既に遲し明日役所に屆けんと云ひしに明日は直ちに船に歸らざるべからず今夜屆け出てよと士官の勸め切なるに依り余は濡れ衣の儘役所に至れば役員出てヽ懇ろに慰問し且つ同夜は役所に宿せしめ酒食を具へて懇遇し依を出して着せしめぬ翌朝に及び一兵士港より馳せ來る余其故を問へば盗賊船に入り一切の物を盗み去れりと手眞似にて告けヽれば余も大に驚き馳せて船に歸らんとせしに役員は暫く待て、盜まれたれば仕方なし跡の處分を案すべしと直ちに兵士をして船に在りし船頭二人を喚び來らしめ共に役所に宿せしむ聞く同夜船頭二人は船中に伏し晝の勞れに前後の覺へず熟睡し居たるを盗賊窺ひ知りて入り來り米も革函も皆な盗み去りしなりと是に於て余は弊衣一領の外、身に着する物もなく孤客天涯誰に依りて活を求めん茫然として殆ど策の出る所を知らざりしが幸ひにし服店)ドウザン軒(寫眞屋)あり樂善堂支店の小倉錦泰氏は最も義氣に富み余等の窮を憐みて衣服三人分と金三圓及び茶、菓子、手拭、煙草等を贈られ且つ五六回饗應せられたり又た同地の支那通商局長より金三十六圓を與へられ霞浦縣知事も遠く余等の不幸を聞きて金四圓を送致せられたり小倉氏余等の爲め上海領事舘に照會する所あり同舘よりは直ちに世話して送り致されんことを望むの回答あいしかば余等は深く其厚意を謝して同所を發せんとす而るに同所よりは支那船にて通商局役員一名附き添ふて護送すべし余の船は賣却しては如何賣却しなば周旋せんとの言に余も此の船に依りて漂流し此の船に依りて難を免れ以て今日に至りしことなれば今にして之を棄つるは非情の物と雞猶は多少の愛着なきを得さりしが漕きて行くべきにもあらざれば支那官吏に託して之を賣却せしに六圓にて賣れたり斯くて海上無事上海に着せしは九月一日と覺ゆ直ちに領事舘に屆出でしに同舘にては余の至るを待つ久しかりしとて之を招き懇切に待遇し同所の日本旅宿なる常盤舎に宿せしめたり同月九日横濱丸入港し來りしかば乃ち之れに乘して歸途に就かんとせしに領事舘よりは金十二圓を與へ日本人の組織せる慈善會よりも十圓を與へられ且つ常盤舎は余が六日間の宿料を拂はんとするも■して受けず茶代として金三圓を投くるが如く與へて辞し去りしに舎主は船まで追ひ來りて之を返へしぬ莨れより長崎に安着して縣應にも屆出で船頭一名は長崎より直に鹿兒島に歸らしめ余は一名の船頭と共に三角に渡り船頭は同所より鹿兒島に歸らしめ余も亦た久かた振りに我故鄕に歸りて父母親戚の温かなる觀迎を受けぬ今より漂流中の事を追懐するときは茫として夢の如しと雖も鞟鞳たる濤聲時に耳底に響くの感なくんばあらず (完)
現代仮名遣い表記
●漂流談(承前)
三洲港に留まる五日にして年頃六十許りの老翁来り訪ふ同地役所の長なり慰籍最も至り且つ余の船を見て、之れにては福健までは至られまじ修覆を加へてやらんとて工人を召して船の内外に白のペンキを塗らしめたり九日目の夜順風となりしかば同港を出帆せんとせしに五百順許りの帆前船一艘に兵士二十四名仕宮二名乗り込みて余等の船に前後し一名の下士官とも覚しきは余の船の水先となりて案内せり蓋し上官の命を受けて余等を護送するなり。其夜は北家と云へる所に一泊し翌朝に至れば一艘の帆前船あり福健の船なりと云ふ。前の船と共に余等の船を護り翌日午後一時頃福健の川に入れり翌日福健の船なる士官一名と兵士二名余を港に送る風あしくして進まず日没頃漸く達す同夜は既に遅し明日役所に届けんと云ひしに明日は直ちに船に帰らざるべからず。今夜届け出てよと士官の勧め切なるに依り余は濡れ衣の儘役所に至れば役員出てて懇ろに慰問し且つ同夜は役所に宿せしめ酒食を具へて懇遇し依を出して着せしめぬ翌朝に及び一兵士港より馳せ来る余其故を問へば盗賊船に入り一切の物を盗み去れりと手真似にて告けければ余も大に驚き馳せて船に帰らんとせしに役員は暫く待て、盗まれたれば仕方なし跡の処分を案すべしと直ちに兵士をして船に在りし船頭二人を喚び来らしめ共に役所に宿せしむ聞く同夜船頭二人は船中に伏し昼の労れに前後の覚へず熟睡し居たるを盗賊窺ひ知りて入り来り米も革函も皆な盗み去りしなりと是に於て余は弊衣一領の外、身に着する物もなく孤客天涯誰に依りて活を求めん茫然として殆ど策の出る所を知らざりしが幸ひにし服店)ドウザン軒(写真屋)あり楽善堂支店の小倉錦泰氏は最も義気に富み余等の窮を憐みて衣服三人分と金三円及び茶、菓子、手拭、煙草等を贈られ且つ五六回饗応せられたり又た同地の支那通商局長より金三十六円を与へられ霞浦県知事も遠く余等の不幸を聞きて金四円を送致せられたり小倉氏余等の為め上海領事舘に照会する所あり。同舘よりは直ちに世話して送り致されんことを望むの回答あいしかば余等は深く其厚意を謝して同所を発せんとす而るに同所よりは支那船にて通商局役員一名附き添ふて護送すべし余の船は売却しては如何売却しなば周旋せんとの言に余も此の船に依りて漂流し此の船に依りて難を免れ以て今日に至りしことなれば今にして之を棄つるは非情の物と雞猶は多少の愛着なきを得さりしが漕きて行くべきにもあらざれば支那官吏に託して之を売却せしに六円にて売れたり斯くて海上無事上海に着せしは九月一日と覚ゆ直ちに領事舘に届出でしに同舘にては余の至るを待つ久しかりしとて之を招き懇切に待遇し同所の日本旅宿なる常盤舎に宿せしめたり同月九日横浜丸入港し来りしかば乃ち之れに乗して帰途に就かんとせしに領事舘よりは金十二円を与へ日本人の組織せる慈善会よりも十円を与へられ且つ常盤舎は余が六日間の宿料を払はんとするも■して受けず茶代として金三円を投くるが如く与へて辞し去りしに舎主は船まで追ひ来りて之を返へしぬ莨れより長崎に安着して県応にも届出で船頭一名は長崎より直に鹿児島に帰らしめ余は一名の船頭と共に三角に渡り船頭は同所より鹿児島に帰らしめ余も亦た久かた振りに我故郷に帰りて父母親戚の温かなる観迎を受けぬ今より漂流中の事を追懐するときは茫として夢の如しと雖も鞟鞳たる濤声時に耳底に響くの感なくんばあらず。 (完)