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●漂流談
原文表記
●漂流談
本縣下益城郡網津村大字住吉の伊澤彌喜太なる冒險漢が曩に八重山より台灣の隣なる無人島、兒塲島に航せんとするの海上難風に遭ひ幾度か死してまた生くるの危難を經て遂に支那の福健に漂着し幸ひに一命を拾ひ得たる事は槪略報して過日の紙上に在りき而して此の多幸なる冒險漢は此頃支那より長崎を經て恙なく鄕里に歸り一昨日熊本に來れり依て之を我社に延きて其談を求めしに彼れは始め琉球に赴きしより以來今回逢難の事に至るまで落もなく詳細に物語れり語りて其海上難風に吹き漂はされ數日間山を見さるの所に至れば幾度か「實に困りました」との語は其唇頭より迸り出で慘憺の色は自ら眉宇の間に顯はれ聽く者をして或は驚き或は恐れ席の進むを覺へさらしめたりき彼れは年方に四十、躰軀肥大ならざるも筋肉堅く締りたる如く頗る强健の質を備へたるに似たり言語明晰にして應對秩序を失はず數時間の談話毫も本末を紊ることなかりき彼れは家に兩親あり四弟あり皆な健在なりし面して彼れは未だ妻を娶らすと云ふ四十家を爲さヾるの徒か自ら云ふ十日を出でずして再び琉球に赴き遂に無人島に航せんと其冒險の氣象尋常の及ふ所にああざるを見るべきなり左に其の談話を記せん曰く
余は甞て小倉鎭臺に在りて看護卒たり十八年五月分遣隊に從ひ沖繩縣那覇に赴きたるが十九年一月之を辭して同地の縣立病院の藥局に從事し二十年八月之れを辭して三井物產會社の設置せる西表島(八重山群島の一)炭坑事務所の所属なる病院の藥局に入りしも同所は二十二年十月に至て其開掘を中止し事務所を引き沸ひしかは余も亦た那覇に歸り小林病院長に面會したるに頭喜の出張所に人を要すれば暫く同地に赴き助力しては如何との相談、余も渡りに船の心地して之れに從ひ直ちに同地に至りて事務に服せるうち、翌二十三年二月に至り鄕里より急報あり老父病氣なりとの事に驚かされ暫時の服を包ふて匆々歸省したり家に留まりて看病すること八十餘日にして父は全く愈へたれども意外に滯留長延ひし爲め再び那覇に赴きて辭表を出し、これより人に賴まれて硫黄販賣の用を帶ひ長崎に赴き同年十一月又た西表島に渡航せり
初め西表島に在りしころ臺灣を距る遠からざうの所に兒塲島と稱する無人島あり信天翁群簇せり甞て人あり其鳥の羽毛を拔きて之を横濱に送りしに頗る外人の好評を得たり又た其周圍の近海には漁族群生して漁獲の利甚た多しと聞き余は一ひは探險の爲め之れに渡航せんと志せしも時機未た至らず準備熟せさりしかは遂に其志を達するを得す常に以て憾みと爲せしが幸ひにして今回は炭坑事務所員三谷伊平、鹿兒島人松村仁之助、仝永井喜左衛門の三人余の志を賛して其經画を助けんと誓へり是に於て余は素志の漸々達せんとするを喜ひ奮躍して渡航の準備に着手したるが幸ひにして同地には一艘の石炭船あり船躰は堅牢なるも甚だ大なるものに非ず新造の時は一万斤を積みたれども今は稍々老ひて六千斤を容る、に足るのみなり之を以て洪波大濤の間を凌き未知の航路をたどりて無人島に達せんとするは誰か危險なりとせざるものあらん左れども余の胸裡に炎々たる希望の燄は全く畏怖逡巡の念を燒き尽して亳も前路の危難を知らず之れに搭載するに米、酒、醤油、味噌、等の飲食品及ひ日常の器物にして此の行に欠くべからざる者を以てし余は六名の漁夫と共に之れに乘り込めり六名の漁夫は皆な糸滿と稱し琉球土人の一種にして最も漁獲に熟す居常殆と海を以て家となし其冒險の膽氣ある余等の及ふ所に非ず余の之を雇入るるや一種の約束を結ひたり彼等は獨木船一艘及ひ鰆釣船一艘を出し余は之れが賄を弁し利益は等分にすること是れなり斯くて八月二十九日西表島を發して先つ與那國に向ふ余等の爲め永井喜兵衛門が同地に買ひ込み置き玄米を積み込まんが爲めなり (つづく)
現代仮名遣い表記
●漂流談
本県下益城郡網津村大字住吉の伊沢弥喜太なる冒険漢が曩に八重山より台湾の隣なる無人島、児塲島に航せんとするの海上難風に遭ひ幾度か死してまた生くるの危難を経て遂に、支那の福健に漂着し幸ひに一命を拾ひ得たる事は概略報して過日の紙上に在りき而して此の多幸なる冒険漢は此頃支那より長崎を経て恙なく郷里に帰り一昨日熊本に来れり依て之を我社に延きて其談を求めしに彼れは始め琉球に赴きしより以来今回逢難の事に至るまで落もなく詳細に物語れり語りて其海上難風に吹き漂はされ数日間山を見さるの所に至れば、幾度か「実に困りました」との語は其唇頭より迸り出で惨憺の色は自ら眉宇の間に顕はれ聴く者をして或は驚き或は恐れ席の進むを覚へさらしめたりき彼れは年方に四十、躰軀肥大ならざるも筋肉堅く締りたる如く頗る強健の質を備へたるに似たり言語明晰にして応対秩序を失はず数時間の談話毫も本末を紊ることなかりき彼れは家に両親あり四弟あり皆な健在なりし面して彼れは未だ妻を娶らすと云ふ四十家を為さざるの徒か自ら云ふ十日を出でずして再び琉球に赴き遂に無人島に航せんと其冒険の気象尋常の及ふ所にああざるを見るべきなり。左に其の談話を記せん曰く。
余は甞て小倉鎮台に在りて看護卒たり十八年五月分遣隊に従ひ沖縄県那覇に赴きたるが十九年一月之を辞して同地の県立病院の薬局に従事し二十年八月之れを辞して三井物産会社の設置せる西表島(八重山群島の一)炭坑事務所の所属なる病院の薬局に入りしも同所は二十二年十月に至て其開掘を中止し事務所を引き沸ひしかは余も亦た那覇に帰り小林病院長に面会したるに頭喜の出張所に人を要すれば暫く同地に赴き助力しては如何との相談、余も渡りに船の心地して之れに従ひ直ちに同地に至りて事務に服せるうち、翌二十三年二月に至り郷里より急報あり老父病気なりとの事に驚かされ暫時の服を包ふて匆々帰省したり家に留まりて看病すること八十余日にして父は全く愈へたれども意外に滞留長延ひし為め再び那覇に赴きて辞表を出し、これより人に頼まれて硫黄販売の用を帯ひ長崎に赴き同年十一月又た西表島に渡航せり。
初め西表島に在りしころ台湾を距る遠からざうの所に児塲島と称する無人島あり信天翁群簇せり甞て人あり其鳥の羽毛を抜きて之を横浜に送りしに頗る外人の好評を得たり又た其周囲の近海には漁族群生して漁獲の利甚た多しと聞き余は一ひは探険の為め之れに渡航せんと志せしも時機未た至らず準備熟せさりしかは遂に其志を達するを得す常に以て憾みと為せしが幸ひにして、今回は炭坑事務所員三谷伊平、鹿児島人松村仁之助、同永井喜左衛門の三人余の志を賛して其経画を助けんと誓へり是に於て余は素志の漸々達せんとするを喜ひ奮躍して渡航の準備に着手したるが幸ひにして同地には一艘の石炭船あり船躰は堅牢なるも甚だ大なるものに非ず新造の時は一万斤を積みたれども、今は稍々老ひて六千斤を容る、に足るのみなり之を以て洪波大濤の間を凌き未知の航路をたどりて無人島に達せんとするは誰か危険なりとせざるものあらん左れども余の胸裡に炎々たる希望の燄は全く畏怖逡巡の念を焼き尽して亳も前路の危難を知らず之れに搭載するに米、酒、醤油、味噌、等の飲食品及ひ日常の器物にして此の行に欠くべからざる者を以てし余は六名の漁夫と共に之れに乗り込めり六名の漁夫は皆な糸満と称し、琉球土人の一種にして最も漁獲に熟す居常殆と海を以て家となし其冒険の胆気ある余等の及ふ所に非ず余の之を雇入るるや一種の約束を結ひたり彼等は独木船一艘及ひ鰆釣船一艘を出し余は之れが賄を弁し利益は等分にすること是れなり斯くて八月二十九日西表島を発して先つ与那国に向ふ余等の為め永井喜兵衛門が同地に買ひ込み置き玄米を積み込まんが為めなり。 (つづく)