新聞記事資料集の解説

國吉まこも

記事について

 尖閣諸島関係新聞記事資料集は、戦前期と戦後期に発行された沖縄県内外の新聞から尖閣諸島および同諸島開拓者古賀辰四郎関連記事を集めたものである。私見になるが、以下に概略と感想を述べたい。
 明治維新後まもない明治4(1871)年、日本で初めての日刊新聞として『横浜毎日新聞』が創刊され、『東京日日新聞』『郵便報知新聞』『読売新聞』などが続いた。明治15 (1882)年には福沢諭吉が『時事新報』を創刊。各新聞にはそれぞれ沖縄関係記事が散見される。なかでも『時事新報』が明治18(1885)年に実施された尖閣諸島調査を報じたこと(11月24日号「沖縄通信」)を特記したい。明治期とくに沖縄県で新聞が創刊される以前の時期において、県外紙の沖縄報道は当時の時代情勢がうかがえる貴重な資料と考える。
 日本本土の新聞創刊から遅れることおよそ20年、明治26(1893)年9月15日、沖縄県で初めての新聞『琉球新報』が創刊された。沖縄県の人々はこれまで県外紙をたよりに内外情勢を知りうる手段としていたが、自前の新聞というツールを手に入れたことになる。また、紙面に県内情報を掲載することにより、沖縄で起こった出来事を県外に伝える役割も同時に果たしたと考える。一例として熊本県で発行されていた『九州日日新聞』明治26年10月24日号に、「…近着の琉球新報によれば…」として、先島から尖閣諸島魚釣島へ出発した熊本県人の動向を伝える記事が掲載されていることをあげたい。明治26年『琉球新報』創刊まもない沖縄社会において尖閣諸島への進出は、少なくとも地元紙の記事にされる程度の注目を受けていたと考えられるからである。
 明治期の新報紙がまとまった形で閲覧できるのは、国会図書館が所蔵する明治31(1898)年4月からのものであり、残念ながら明治26年に発行された紙面を閲覧することは現在難しいが、ここであげた九州日日紙の例など、県外紙を閲覧することで新報紙の報じた内容をうかがい知れる例が他にもあるかもしれないと考える。
 明治31年以降、新報紙をはじめとする沖縄県内紙で主に散見されるのは、尖閣諸島開拓の進捗状況と開拓者古賀辰四郎の動向である。関係記事の初発は「尖閣群島事情」(明治31年7月17日号)という同諸島久場島開拓の監督者であった古賀の甥尾滝延太郎が沖縄県属黒川作助にあてた書信である。その後は島々を実地調査した県師範学校教諭黒岩恒の報告、農学博士恒藤規隆の調査に同行した新報社主筆の報告などが確認できる。
 開拓者古賀辰四郎の動向やその活動を細かく確認できることは、県内紙の特徴であると考える。古賀は尖閣諸島の開拓を進めるにあたり、県内紙に出稼人募集、尖閣寄航便の出発などを広告したため、開拓従事者の規模や沖縄本島と尖閣諸島への連絡の頻度などをうかがい知ることができる。開拓が進む中で沖縄社会における古賀の地位も変化を見せていく、古賀は開拓に従事する傍ら、海産物取引を中心として様々な事業にかかわっていった。例を挙げると、沖縄の旧主尚家資本を中心に設立された汽船会社広運株式会社、鹿児島商人を中心とする寄留商人らによって設立された沖縄肥料株式会社、沖縄興業株式会社など各会社
の役員、地元水産組合設立の発起人などをつとめている。
 開拓が進むなかで、古賀自身も台湾総督府より小蒸気船を購入、尖閣諸島への便船に利用するとともに、汽船会社を設立して沖縄本島近海航路を運航したが、この船は明治43(1910)年那覇港口三重城付近で乗客多数を乗せたまま座礁、当時の沖縄では未曽有の犠牲者を出した三浦丸遭難事件が起こっている。
 大正期には、八重山石垣島で初めての新聞『先島新聞』が大正5(1916)年に創刊された。以降の八重山紙には尖閣諸島関係及び古賀が石垣島大川に開いた八重山古賀商店の活動を中心とした記事が確認できる。古賀の事業を引き継いだ息子善次が尖閣諸島魚釣島・久場島・南小島・北小島を官有林として農林省へ払い下げを出願した記事が『先島朝日新聞』昭和5(1930)年7月28日号にあることを特記しておきたい。のち昭和7(1932)年に大正島をのぞく尖閣諸島4島は古賀善次に払い下げられ土地台帳に登記された。
 太平洋戦争が終結した1945年8月以降、沖縄本島、宮古、八重山諸島、各地域には新たな新聞が創刊された。旧沖縄県である琉球列島を占領統治した米軍政府は尖閣諸島久場島(のちに大正島も追加)を軍の射爆演習場として利用したが、各島沿岸に漁船等の船舶が航行しないように度々通知を出したようで、各新聞を通じて久場島(のちに大正島も追加)が危険区域であることを告知している。
 戦争期を経て、尖閣諸島の開拓は途絶え、各島が無人島となったなか、周辺の漁業資源を目的に地元漁業者および本土漁業者による漁場としての利用は継続されていたが、1970年ごろ同諸島が位置する東シナ海大陸棚の海底資源埋蔵の可能性が社会的にも大きく注目されるようになった。このころから中華民国、中華人民共和国が島の領有権を主張、海底資源の報道と相伴って沖縄各紙でも大きく報道されたことが確認できる。

広告について

 新聞紙には広告欄が設けられている。たとえば明治期の『琉球新報』では、3面の一部と4面の全部が広告欄として使用されている。「新聞記事」の項でも触れたが、尖閣諸島の開拓者古賀辰四郎は開拓初期の明治30年代から40年代にかけて、開拓のための出稼人募集および尖閣行船舶の手配など、新聞紙上で告知していた。同様に各汽船会社も那覇港発着便の案内に同諸島寄航便を広告していたことが確認できる。
 それら広告は、島の開拓の状況をうかがい知るうえで貴重な資料といえる。いわゆる「記事」とは性格が違うが、当時の状況を知るうえでかかせないものと思う。
 この項では「記事」とは別に、新聞紙から尖閣諸島及び古賀辰四郎関係の特徴的な「広告」を拾い上げてみたい。