キーワード検索
この頃無人島 古賀氏より拂下出願
原文表記
この頃無人島 古賀氏より拂下出願
農林省は如何に處分するか 今の處では不明
先嶋朝日新聞 昭和五年七月二十八日
この殺人的不景氣は吾が八重山の尖閣列嶋俗に言ふ無人島にまで影響しそこに永年開墾事業や漁業等してゐる古賀會社では近年事業も振はず現在では月給拾五圓で番人を三人おいて夜光貝の採取等をさせ冬になると漁業等をして少し賑はふやうである
本島は明治十二年二月に那覇市西本町の古賀辰四郞が発見した 其の當時は本島は日本の地圖にもなく從つて日本の領土に入るか入らないか全く不明で古賀辰四郞氏が縣知事に開墾しやうとして許可申請をなしたが領土不明の爲一時却下され其後明治二十七八年戦役後仝二十九年九月勅令第十三號を以て日本の領土と確定せり
其處で發見者古賀氏は向ふ三十年間■無償で借りる様になり 仝三十■三月に自分自ら出嫁人三十五名を引連れて本島へ乘込み事業を着々やつて居たが糧食缺之等で困苦し仝三十一年五月には大阪商船株式會社の須磨丸を借入れ出嫁人五十名を引連れて來て本島の開墾を困苦と闘ひつゝ續けて居た 其の当時は唐イモ 野菜等を不時の災難の備へとして作つて住民はもつぱら漁業に從事して居たとの事である
仝三十三年に帝國大學敎授理學博士箕作氏が本島の實地踏査を行つた事もあり亦仝三十四年五月には縣廳の熊倉工學士が出張してきて實施踏査した事もあつたとの事である
古賀氏は其の後期間滿了したので毎年百三十六圓六十一錢で本島を借り受けて多大の資本も入れて事業を現在までやつてきた様だが現在は番人三名が居て夜光貝の採取等に從事し唐イモが一反歩ばかりあり芭蕉や樟竹林等もやつて居る様であるが古賀氏は農林省へ本島拂下を願出たの■農林省では沖繩營林署属 仲宗根嘉四郎氏に出張せしめて實地調査を行はしめた 仲宗根氏は仝署小濱駐在の國生氏■共に十六日間に亘り實地調査を遂げてきて左の如く語れり
無人島は南小島 北小島 久場しま 魚釣しま からなつてゐて其の周圍■南小島は二十三町五十三間 北小島は二十八町五十三間 久場島■三十二町 魚釣島二里十四町■■■■南北の兩小島は岩石からなつ■ゐて木もなくたゞガキナ草■僅かばかり生えてゐますが久場島と魚釣島は山もあつて木は少■ありますが久場島南北兩小島■■海鳥が何十万と數へきれない程ゐて實際行つて見ない人でない限り想像出來ません 私達■狩猟の用意に鉄砲を持つてゐましたがそれは何にも役立ちませんでしたかへつてステツキを振ればいくらでも取れます
其の島は主にカグー イチナ ウンケー アホー鳥で五寸おきに並んてゐます 五六斤もかゝる程なものですからかへつて恐しくなります そうしてうつかり歩くと 卵を踏みます その卵は臭氣鼻をつくが如くで私達は注意をして歩きました
一番困りましたのは私達が測量する際に測量する板の上に鳥が糞をたれて閉口した事です
山羊も兎(黒色)鳩等も居ます鳩を狩らうとして鉄砲を打つたら鉄砲の音に珍しがつて鳩が群れ集つてほんとに呆氣に取られました
山猫も大きなものが居るといふ話ですが見當りませんでした
この島の位置は石垣島の北方九十浬 台灣基隆の東北百浬■本嶋と石垣嶋と基隆で三角形をなして居る様です
久場嶋は溶岩等あつて以前に噴火した様に思はれます
其の他の嶋は石灰岩から成つて居ます
現在は那覇の古賀氏が百三十六圓六十一錢で借りてゐますが此際農林省へ拂下の願出をしてあるので私等はその調査にきましたがその調査報告を熊本營林署へ報告して後に賣却するなりしてどうにか處分するだろうと思はれますが今の處でははつきりしたことはわかりません
十六日間も滯在して居ましたが別に淋しいといふ感じは起りませんでした
現代仮名遣い表記
この頃無人島 古賀氏より払下出願
農林省は如何に処分するか 今の処では不明
先嶋朝日新聞 昭和五年七月二十八日
この殺人的不景気は吾が八重山の尖閣列島、俗に言う無人島にまで影響し、そこに永年開墾事業や漁業等している古賀會社では近年事業も振わず、現在では月給十五円で番人を三人おいて夜光貝の採取等をさせ、冬になると漁業等をして少し賑わうようである。
本島は明治十二年二月に那覇市西本町の古賀辰四郞が発見した。其の当時は本島は日本の地図にもなく、従って日本の領土に入るか入らないか全く不明で、古賀辰四郞氏が県知事に開墾しようとして許可申請をなしたが領土不明の為一時却下され、其後明治二十七、八年戦役後、同二十九年九月勅令第十三号を以て日本の領土と確定せり。
其処で発見者古賀氏は向う三十年間■無償で借りる様になり 同三十■三月に自分自ら出稼人三十五名を引連れて本島へ乗込み事業を着々やって居たが、糧食缺之等で困苦し、同三十一年五月には大阪商船株式會社の須磨丸を借入れ、出稼人五十名を引連れて来て本島の開墾を困苦と闘いつゝ続けて居た。其の当時は唐イモ、野菜等を不時の災難の備えとして作って、住民はもっぱら漁業に従事して居たとの事である。
同三十三年に帝国大学教授理学博士箕作氏が本島の実地踏査を行った事もあり、亦同三十四年五月には県庁の熊倉工学士が出張してきて実施踏査した事もあったとの事である。
古賀氏は其の後期間満了したので、毎年百三十六円六十一銭で本島を借り受けて多大の資本も入れて事業を現在までやってきた様だが、現在は番人三名が居て夜光貝の採取等に従事し、唐イモが一反歩ばかりあり、芭蕉や樟竹林等もやって居る様であるが、古賀氏は農林省へ本島払下を願出たの■農林省では沖縄営林署属仲宗根嘉四郎氏に出張せしめて実地調査を行わしめた。仲宗根氏は同署小浜駐在の国生氏■共に十六日間に亘り実地調査を遂げてきて左の如く語れり。
無人島は南小島、北小島、久場島、魚釣島、からなっていて、其の周囲■南小島は二十三町五十三間、北小島は二十八町五十三間、久場島■三十二町、魚釣島二里十四町■■■■南北の両小島は岩石からなっ■いて、木もなくたゞガキナ草■僅かばかり生えていますが、久場島と魚釣島は山もあって木は少■ありますが、久場島南北両小島■■海鳥が何十万と数えきれない程いて、実際行って見ない人でない限り想像出来ません。私達■狩猟の用意に鉄砲を持っていましたが、それは何にも役立ちませんでした。かえってステッキを振ればいくらでも取れます。
其の島は主にカグー、イチナ、ウンケー、アホー鳥で五寸おきに並んでいます。五、六斤もかゝる程なものですからかえって恐しくなります。そしてうっかり歩くと、卵を踏みます。その卵は臭気鼻をつくが如くで私達は注意をして歩きました。
一番困りましたのは私達が測量する際に測量する板の上に鳥が糞をたれて閉口した事です。
山羊も兎(黒色)、鳩等も居ます。鳩を狩ろうとして鉄砲をうったら鉄砲の音に珍しがって鳩が群れ集ってほんとに呆気に取られました。
山猫も大きなものが居るという話ですが見当りませんでした。
この島の位置は石垣島の北方九十浬、台湾基隆の東北百浬■本島と石垣島と基隆で三角形をなして居る様です。
久場島は溶岩等あって以前に噴火した様に思われます。
其の他の島は石灰岩から成って居ます。
現在は那覇の古賀氏が百三十六円六十一銭で借りていますが、此際農林省へ払下の願出をしてあるので私等はその調査にきましたが、その調査報告を熊本営林署へ報告して後に売却するなりしてどうにか処分するだろうと思われますが、今の処でははっきりしたことはわかりません。
十六日間も滞在して居ましたが、別に淋しいという感じは起こりませんでした。