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離島の趣味

掲載年月日:1913/1/12(日) 大正2年
メディア:琉球新報社 3面 種別:記事

原文表記

離島の趣味
 (上)     許田星村
離島――私は此の離嶋と云ふ事に大なる趣味を以つて見る事が出來ます、何故かと申せば、明月の晩は何んとなく心持ちが好いのであるけれど、什歴、心持ちであるかと反論された時は最早やお了ひで何んとも答へる事は出來ません、然しながら離嶋に就いては二様の見方が有ります、是を表面から申しますと、古來の英勇、豪傑なる者の末路も此の離島にしばしば關係が有りましたのと又之を裏面から申しますと其所には一種の人生觀が横たはるので有ります彼の怪傑、ナポレヲンの末路は、どうで有りましたか、思ふ存分に三軍を叱咤の馬蹄に踏破しながら全歐州を縱横無尽に蹂躙して神力飛島の勢があつたにも係はらず、何日しか目に見えぬ運命の捕虜と成つて哀れなる哉、鳥も通はぬセントヘレナの歌枕に墓なく雖と消へて了いましたのは罪なくて配所の月を眺められ■我が管公よりも氣の毒千万で有ります、同じく大嶋三左衛門の由來浦島が古事、ロビンソンクルソーの島物語など興味津々たる物も有りますけれど中に哀れなるは鎮西八郎爲朝公の半生も■嶋より離島に徘徊して遂に行衛不明と成りました、觀じ來だれはソロモン榮華の夢さめて脆くも消ゆる人の世の忽焉として何んぞ夫れみじかしや、驕る者は久しからずと昔の人々は口癖のように語り傳へられて居りますが何んぞ計らん驕らざる者も、能く久しき事、果して幾何の差を生ずる事やら、だけれども藤原氏の末路は、如何に恰も延々凋める花の色なくて香ひ残れるが如きは見ぐるしいでは有りませんか、然らば源氏の末路は如何なる物か、三代にして俄かに消へ去る恰も椿の花が静心なく、プツリと枝を辭して化しけん元の土塊も、はかないでは有りませんか、同じく廬生が夢ならば只華麗に去れ、そして地球の成る所にささやかなりとも一點の印象を刻して後永久に慈愛、深き造物者の臺に歸るべし、茲に到つて私は平民の末路に同情を有すると同時に何んとも云はれぬ愉快を感じます、世は寂閑として、皆々、■胥に逍遙する、時にもあれ、一陣の山風さつと音連れ來たる其砌り、バラバラと散り行く櫻花の如何に雄々しく又、美麗なりしか然れども仲には意氣地ない餘薫もありました、落花、に枝に歸り得ざる平家の残黨は西海に走り、七島以南■漂流して琉球諸嶋の所々に散らばる平安潮流の餘波は粟國から與那國の近傍まで當時の悲劇を語りつゝ有ります、哀れなる哉、離嶋の昔とは申しながら、久米や慶良間のような交通頻繁なる離嶋は興味が薄いので有ります、津堅、久高の群島などは稍や離島らしい趣きが有ります、尙大なる物には仙閣列島、大東島などが有ります
 (下)
以上は詩趣の■から覗いた主觀的の離嶋で是を客觀にすれば案外に詰らぬ物で有ます無闇に厭世觀を振り廻し社會を罵倒して得意とする者どもと流刑に處して見れは■ぞ面白い事でしやう、然らば自づから宗教心も起れば愛國心も起るに相違ない、其の昔、鹿ヶ谷の別荘に■めしい議論を吐いた俊寛佾都も、鬼界ヶ島では駄々つ兒のように愚痴を溢されたそうな
「吾こそは新嶋守りよ沖の海の
    荒きなみ風心して吹け」
此の歌は御承知の通り恐れ多くも承久の昔御鳥羽院が離嶋の御詠で有ります、御醍醐帝も同じく尊い御身ながら時運、未だ開かずして竹の園生を出給ひ隠岐の島へ渡らせ給ひし事今更、袖に露けき哀れな御物語りで有ります、元冠の乱に苦しめられし壹岐對嶋も、穂々手見命か行き終ひし龍宮の嶋物語りも、悲しき嬉しき共に離島の産物であります、最つと翻がへつて考うるに、天の浮橋から諾冊二尊が、游能馭呂島に御降り遊ばしたのか日本民族の序開きでは有りませんか
 「語て呉れ戀ひ渡ら
      浮世■島なからん島■あらば」
之は仲風に顯はれた、平敷屋朝敏の歌で有ります、順■に生れて世俗の單調に飽いた貴公子は時々、這麼、我■儘を云うので有ります、けれども
 「此の世をは我が世とぞ思ふ望月の
     缺けたる事もなしと思へば」と
威張つた藤原の道長は思想の點から云へば平敷屋よりは遙かに坊ッちゃんで有りました、物質的の滿足に鬼の首でも取つたような事を抜かして居るが惜しむらくは此の關白に最つと長命をさせて百二十五歳までも生かして置けば遂ひには理想生活に憧れて「語て呉れ戀ひ渡ら」なんて云つたかも知りません又、平敷屋は同じく極端な歌を詠じて居ります
 「與所目しのぶな玉黄金
     浮名立つ二人ままどなゆる」
西洋の誰やらが綴ッた海賊の詩をひとまとめにしたような心持ちである是は絶對的■戀愛の捕虜者と成つて仕舞つたのです、其の眼中には名譽もなく宗教も遍歴も屁もない云ひ■である歌の主は頻るに、ラフの勝利を以つて人世を論ぜんとして居るけれど擧莧る所、本能の流浪を甘く詩化したに遇ぎません話は一寸横道に這入りましたが終りにん臨で琉歌の表裏を述べて見度いのです
 「小濱てふ島やだんじゆとよまれる
     大岳はくさて白濱前なち」
何んだか面白そうな離島である之は景に依て情を想せんとして居りますが欲を云へば物足ぬ心地がする漠然として捕へ所の無いとも評される
 「汀間と阿部堺のかなしちやの濱に
     里と振別り■のもゝの苦しや」
右は情に依つて景を想はしむる筆法である思ひ巡らせば霜月、師走の候只でさへ物淋しい寒村の濱邊木枯ふき荒れたるの前■は渺茫たる大洋に逆巻く浪の音凄まじく折々、頭上を泣き渡る鳴の聲も悲しく、あかねさす夕日は山の端に没せんとする頃現今で云へば布哇移民でもよく戰役に行く良人でもよい共に名残り惜しみつゝ此所まで來た時、泣いて明石■濱千鳥断腸の思ひをなす、哀れなる女を詠じた物であります(完)

現代仮名遣い表記

離島の趣味
 (上)     許田星村
離島――私はこの離嶋と云う事に大なる趣味を以つて見る事が出來ます、何故かと申せば、明月の晩は何んとなく心持ちが好いのであるけれど、什歴、心持ちであるかと反論された時は最早やお了ひで何んとも答へる事は出來ません、然しながら離嶋に就いては二様の見方が有ります、是を表面から申しますと、古來の英勇、豪傑なる者の末路も此の離島にしばしば關係が有りましたのと又之を裏面から申しますと其所には一種の人生観が横たはるので有ります彼の怪傑、ナポレヲンの末路は、どうで有りましたか、思ふ存分に三軍を叱咤の馬蹄に踏破しながら全歐州を縦横無尽に蹂躙して神力飛島の勢があつたにも係はらず、何日しか目に見えぬ運命の捕虜と成つて哀れなる哉、鳥も通はぬセントヘレナの歌枕に墓なく雖と消へて了いましたのは罪なくて配所の月を眺められ■我が管公よりも氣の毒千万で有ります、同じく大嶋三左衛門の由來浦島が古事、ロビンソンクルソーの島物語など興味津々たる物も有りますけれど中に哀れなるは鎮西八郎爲朝公の半生も■嶋より離島に徘徊して遂に行衛不明と成りました、觀じ來だれはソロモン栄華の夢さめて脆くも消ゆる人の世の忽焉として何んぞ夫れみじかしや、驕る者は久しからずと昔の人々は口癖のように語り傳へられて居りますが何んぞ計らん驕らざる者も、能く久しき事、果して幾何の差を生ずる事やら、だけれども藤原氏の末路は、如何に恰も延々凋める花の色なくて香ひ残れるが如きは見ぐるしいでは有りませんか、然らば源氏の末路は如何なる物か、三代にして俄かに消へ去る恰も椿の花が静心なく、プツリと枝を辭して化しけん元の土塊も、はかないでは有りませんか、同じく廬生が夢ならば只華麗に去れ、そして地球の成る所にささやかなりとも一點の印象を刻して後永久に慈愛、深き造物者の臺に歸るべし、茲に到つて私は平民の末路に同情を有すると同時に何んとも云はれぬ愉快を感じます、世は寂閑として、皆々、■胥に逍遙する、時にもあれ、一陣の山風さつと音連れ來たる其砌り、バラバラと散り行く櫻花の如何に雄々しく又、美麗なりしか然れども仲には意氣地ない餘薫もありました、落花、に枝に歸り得ざる平家の残黨は西海に走り、七島以南■漂流して琉球諸嶋の所々に散らばる平安潮流の餘波は粟國から與那國の近傍まで當時の悲劇を語りつゝ有ります、哀れなる哉、離嶋の昔とは申しながら、久米や慶良間のような交通頻繁なる離嶋は興味が薄いので有ります、津堅、久高の群島などは稍や離島らしい趣きが有ります、尚大なる物には仙閣列島、大東島などが有ります
 (下)
以上は詩趣の■から覗いた主観的の離嶋で是を客観にすれば案外に詰らぬ物で有ます無闇に厭世觀を振り廻し社會を罵倒して得意とする者どもと流刑に處して見れは■ぞ面白い事でしやう、然らば自づから宗教心も起れば愛國心も起るに相違ない、其の昔、鹿ヶ谷の別荘に■めしい議論を吐いた俊寛佾都も、鬼界ヶ島では駄々つ兒のように愚痴を溢されたそうな
「吾こそは新嶋守りよ沖の海の
    荒きなみ風心して吹け」
此の歌は御承知の通り恐れ多くも承久の昔御鳥羽院が離嶋の御詠で有ります、御醍醐帝も同じく尊い御身ながら時運、未だ開かずして竹の園生を出給ひ隠岐の島へ渡らせ給ひし事今更、袖に露けき哀れな御物語りで有ります、元冠の乱に苦しめられし壹岐對嶋も、穂々手見命か行き終ひし龍宮の嶋物語りも、悲しき嬉しき共に離島の産物であります、最つと翻がへつて考うるに、天の浮橋から諾冊二尊が、游能馭呂島に御降り遊ばしたのか日本民族の序開きでは有りませんか
 「語て呉れ戀ひ渡ら
      浮世■島なからん島■あらば」
之は仲風に顯はれた、平敷屋朝敏の歌で有ります、順■に生れて世俗の單調に飽いた貴公子は時々、這麼、我■儘を云うので有ります、けれども
 「此の世をは我が世とぞ思ふ望月の
     缺けたる事もなしと思へば」と
威張つた藤原の道長は思想の點から云へば平敷屋よりは遙かに坊ッちゃんで有りました、物質的の滿足に鬼の首でも取つたような事を抜かして居るが惜しむらくは此の關白に最つと長命をさせて百二十五歳までも生かして置けば遂ひには理想生活に憧れて「語て呉れ戀ひ渡ら」なんて云つたかも知りません又、平敷屋は同じく極端な歌を詠じて居ります
 「與所目しのぶな玉黄金
     浮名立つ二人ままどなゆる」
西洋の誰やらが綴ッた海賊の詩をひとまとめにしたような心持ちである是は絶對的■戀愛の捕虜者と成つて仕舞つたのです、其の眼中には名譽もなく宗教も遍歴も屁もない云ひ■である歌の主は頻るに、ラフの勝利を以つて人世を論ぜんとして居るけれど擧莧る所、本能の流浪を甘く詩化したに遇ぎません話は一寸横道に這入りましたが終りにん臨で琉歌の表裏を述べて見度いのです
 「小濱てふ島やだんじゆとよまれる
     大岳はくさて白濱前なち」
何んだか面白そうな離島である之は景に依て情を想せんとして居りますが欲を云へば物足ぬ心地がする漠然として捕へ所の無いとも評される
 「汀間と阿部堺のかなしちやの濱に
     里と振別り■のもゝの苦しや」
右は情に依つて景を想はしむる筆法である思ひ巡らせば霜月、師走の候只でさへ物淋しい寒村の濱邊木枯ふき荒れたるの前■は渺茫たる大洋に逆巻く浪の音凄まじく折々、頭上を泣き渡る鳴の聲も悲しく、あかねさす夕日は山の端に没せんとする頃現今で云へば布哇移民でもよく戰役に行く良人でもよい共に名残り惜しみつゝ此所まで來た時、泣いて明石■濱千鳥断腸の思ひをなす、哀れなる女を詠じた物であります(完)