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◎明治四十四年の農業界(三)
原文表記
◎明治四十四年の農業界(三) 南 豊
(十四)農事功勞者の表彰
大日本農會の農事功勞者表彰は此前に二、三回あつたか此中もあつて大里おの宮里正一君浦添村の宮城篤恭君西原村の宮平我融君恩納村の金城永扶君の四君か名譽の月桂冠を得た而して年の五月に縣廳で賞狀の傳達式か嚴肅行はれた而して此賞狀に貞愛親王殿下の御署名かあつたことなどは管々數云ふ迄もない
(十五)農會の設立
農會の設立に就ては春の郡區長島司會議に諮問にもなつた其後各地とも順序として町村農會の設立を計劃してあつた樣たか宮古郡に於ては十一、十二月の両月間に平良、城邊、伊良部の三農會が成立した農會法發布以來十二年を經た今日てはあるか本縣としては之か農會の嚆失である將來各地の區町村農會も出來、郡、島農會も出來縣農會も成立して斯道の爲に大活躍をする樣になれば沈滯不振の農業も頓に面目を一新するとあらう而して是は遠き未來の事ではあるまい
(十六)製糖竈の研究
島尻郡の町村組合では在來製糖釜及竈の改良を企て豫て新道に熱心の聞へある白水伊仲君か主任となり古波藏の農學校で夏季以來引續き竈を造つては毀し毀しては復た■る釜を三つ並へたり五つ置たり煙突を立てたり倒したりなどして辛ふじて年の十一月に一種の伊仲式又は島尻式とでも云ふべきものを造上かけた此方式によれば一日十挺位は焼ける筈たか未だ充分ではない点もあるとかで引續いて研究を重ぬる相だ伊仲君の熱心の熱が積れば幾十万挺の砂糖は燃料と勞力を減じて焼上げらるゝことになるのだ當業者は君と善い中になつて同君の企てを援けることにするか善い
(十七)豚疫
豚疫の流行も大分續いた此爲に縣民の蒙つた損害は莫大なものだ仮りに斃死頭數を二万として一頭貳拾圓としても四十万圓であるか事實は之より多いであらう加之一般の肉の消費者は非常に高價のものを喰なされる然し幸なことには此頃は段々下火になつた卽ち四十一年には一万七千八百三十九頭四十二年には二千百七十一頭四十二年には千五百四十七頭の發病かあつたのに四十四年には八百六十八頭で丁度四十一年の二十分の一になつた尤も根本の總豚數か減じて居るから疫豚の比例か二十分の一になつたとは云へぬか兎も角下火である事は疑ひない而して幸ひ血清も出來て豫防も出來るらしい此處で當業者か公德を守つて斃死豚を河に棄つることを止め完全に消毒豫防に注意し血清の注射も■にやつたら撲滅することか出來相なものだ
(十八)品評會
此年には品評會も大分あつた先づ重要物產品評會では首里區か八月に首里で、中頭郡か九月に宜野灣で、國頭郡か八月に今歸仁で開催した出品物は例の通り米、大小豆、澱粉、葉煙草、木綿織物、芭蕉布、漆器、仝生地等であつたか審査長の報告は例に依つて同一だ曰く進歩の跡歴々曰く改良の豫地不尠を認む曰く何殆んと活版刷の文句的なるか多けれども事實其通りであらう畜產品評會も十一月に國頭名護で十二月に中頭越來で開催せられた而して是れが審査長の重命を拜したのは國頭の方か老練なる大工廻技手中頭の方か斯■に造詣の深い倉ヶ野技師であつた其他の管々は云ふ必要もあるまい
(十九)農業幻燈
中頭農學校の職員は三月の試驗休を利用して各村を巡回し農業幻燈を開催した六ヶ敷學理論やなんかを言葉さへ能く通じない農家に話すよりも土地の事情に精通した同校の職員か幻燈と出掛けたのは誠に時宜を得て居る殊に旅費まで自辨でやつたと云ふに至りては益々感佩の至りだ
(二十)茶樹柑橘の試驗
茶樹と柑橘の試驗は是迄幾度か企てられて多くは目的を達せず中頭郡では此の爲に特に試驗塲を設けたか是も未た目的を達する迄には至らぬ要するに本縣に於ては難争中の難事であらう此難事たる事は本省迄も知れて特別補助を出して試驗をさする事になり農事試験塲では中頭郡越來に柑橘を國頭郡羽地に茶樹を植付た希くは此試驗か好結果を得て追て本縣產の茶を飲み本縣產の密柑を食へる樣にしたいものだ
(廿一)砂糖樽の粗製濫造
砂糖樽の製造に付ては砂糖樽營業取締規則かあつて寸法重量等は釜敷制規かあるから粗製濫造は出來ぬ筈だが矢張りなきにしもあらずで十二月の十四十六の両日間與那原の檢査所で檢査した千四十挺の内四百八十四挺は不合格であつた相た而して不合格の重なるものは量目の超過にあるので一挺二十斤を超ゆるものさへあつた樣だコンナ樽を造る人買ふ人共に公德心は皆無であるのかしら尤も檢査も充分に嚴格にやつて欲しい
(廿二)砂糖生產者同業組合
此同業組合の話は春の口張糖事件の時から起つた問題であるつまり口張糖の取締は生產者相互に■戒めて是を直さんと効力がないと云ふので至當の話だ此位自然的に起つて穏健進行しつゝある問題は少い尤も糖商組合が同一の目的を以て曩に設立せられてあるので其間の折合の一寸面白ないと云ふのだが何れ後日何とか話は纏るであらう茲には只た此問題か此年から起つたことを云ふて置けばよいのだ
以上の二十二項は一寸氣付た重なものゝみだか此外に一寸云ふて置きものもか二、三件ある其一つは農業全体に最も重大の關係ある気象た大体に於て此年の氣候はよかつた只だ九月末の暴風………暴風とても本縣の風としては弱い方で作物に被害の多かつたのは宮古位なもので是よりも其後に四十日斗りも降雨のなかつた後甘蔗の發育を妨げたのは影響か太かつた然し此間■濕地の畑は却て發育かなかつた要するに餘り文句のない年だつた而して此年位に問題になり相でならなかつたのは堆肥獎勵と稻作改良のことだ人造肥料の使用の盛大になるに反して堆肥の使用か衰微する傾向かありはせぬかよし衰へぬまで盛にならぬのはよくない元か盛へずに先きが盛ると風にも倒れ易い樣な譯である夫から稻作のことは餘り人が注意せぬ樣たか仲吉君とは話した事もある今の五万石か拾万石になるのは易いことであつてしかも大に有益である勿論反別を增大とは六ヶ敷いとしても耕作法に改良の仕方あらう一反歩二斗か三斗の収穫とは惜けない野菜の供給は大分增した尤も那覇附近に於て然し一定の時期に凡そ一定した品物即ち茄子、胡瓜、葱、大根、牛蒡、菜豆、甘藍の樣なものが見へる將來はもつと時期の永きに亘り種類の多きを供給して貰ひ度い之を要するに平凡の一年間にも以上の如き出來事はある今年は上下内外総てしつかりやつて■農業歴史に光彩を添ゆる樣にしたい而して來年の正月號に此椵况を掲げて續者と樂を分ち度い (完)
現代仮名遣い表記
◎明治四十四年の農業界(三) 南 豊
(十四)農事功労者の表彰
大日本農会の農事功労者表彰は此前に二、三回あったが此中もあって大里おの宮里正一君、浦添村の宮城篤恭君、西原村の宮平我融君、恩納村の金城永扶君の四君が名誉の月桂冠を得た。そして年の五月に県庁で賞状の伝達式が厳粛行われた。そして此賞状に貞愛親王殿下の御署名があったことなどは管々数云う迄もない。
(十五)農会の設立
農会の設立に就ては春の郡区長島司会議に諮問にもなった。その後各地とも順序として町村農会の設立を計画してあった様たが、宮古郡に於ては十一、十二月の両月間に平良、城辺、伊良部の三農会が成立した。農会法発布以来十二年を経た今日ではあるが、本県としてはこれが農会の嚆失である。将来各地の区町村農会も出来、郡、島農会も出来県農会も成立して斯道の為に大活躍をする様になれば、沈滞不振の農業も頓に面目を一新するとあらう。そしてこれは遠き未来の事ではあるまい。
(十六)製糖竈の研究
島尻郡の町村組合では在来製糖釜及竈の改良を企て、予て新道に熱心の聞へある。白水伊仲君が主任となり古波蔵の農学校で夏季以来引続き竈を造っては壊し、壊しては復た■る釜を三つ並べたり、五つ置たり、煙突を立てたり、倒したりなどして辛うじて年の十一月に一種の伊仲式又は、島尻式とでも云うべきものを造上かけた。この方式によれば一日十挺位は焼ける筈だが、未だ充分ではない点もあるとかで、引続いて研究を重ぬるそうだ。伊仲君の熱心の熱が積れば幾十万挺の砂糖は燃料と労力を減じて焼上げらるることになるのだ、当業者は君と善い中になって同君の企てを援けることにするか善い。
(十七)豚疫
豚疫の流行も大分続いた。この為に県民の蒙った損害は莫大なものだ。仮りに斃死頭数を二万として一頭二十円としても四十万円であるが事実は之より多いであらう。加之一般の肉の消費者は非常に高価のものを喰なされる。しかし幸なことには此頃は段々下火になった。即ち四十一年には一万七千八百三十九頭、四十二年には二千百七十一頭、四十二年には千五百四十七頭の発病があったのに、四十四年には八百六十八頭で丁度四十一年の二十分の一になった。もっとも根本の総豚数か減じて居るから疫豚の比例が二十分の一になったとは云へぬか。兎も角下火である事は疑いない。そして幸い血清も出来て予防も出来るらしい。ここで当業者が公徳を守って斃死豚を河に棄つることを止め、完全に消毒予防に注意し血清の注射も■にやったら撲滅することが出来そうなものだ。
(十八)品評会
此年には品評会も大分あった。まづ重要物産品評会では首里区が八月に首里で、中頭郡が九月に宜野湾で、国頭郡が八月に今帰仁で開催した出品物は例の通り米、大小豆、澱粉、葉煙草、木綿織物、芭蕉布、漆器、同生地等であったが審査長の報告は例に依って同一だ。曰く進歩の跡歴々曰く改良の予地不尠を認む、曰く何殆んと活版刷の文句的なるが多けれども事実その通りであろう。畜産品評会も十一月に国頭名護で、十二月に中頭越来で開催せられた。そしてこれが審査長の重命を拝したのは国頭の方か老練なる大工廻技手、中頭の方か斯■に造詣の深い倉ヶ野技師であった。その他の管々は云う必要もあるまい。
(十九)農業幻灯
中頭農学校の職員は三月の試験休を利用して各村を巡回し農業幻灯を開催した。六ヶ敷学理論やなんかを言葉さへ能く通じない農家に話すよりも、土地の事情に精通した同校の職員が幻灯と出掛けたのは誠に時宜を得て居る。殊に旅費まで自弁でやったと云うに至りては益々感佩の至りだ
(二十)茶樹柑橘の試験
茶樹と柑橘の試験はこれ迄幾度か企てられて多くは目的を達せず、中頭郡ではこの為に特に試験場を設けたがこれも未だ目的を達する迄には至らぬ。要するに本県に於ては難争中の難事であろうこの難事たる事は、本省迄も知れて特別補助を出して試験をさする事になり、農事試験場では中頭郡越来に柑橘を、国頭郡羽地に茶樹を植付た。希くは、この試験が好結果を得て追て本県産の茶を飲み、本県産の密柑を食へる様にしたいものだ。
(二十一)砂糖樽の粗製濫造
砂糖樽の製造に付ては砂糖樽営業取締規則があって、寸法重量等は釜敷制規があるから粗製濫造は出来ぬ筈だが、矢張りなきにしもあらずで十二月の十四十六の両日間与那原の検査所で検査した千四十挺の内、四百八十四挺は不合格であったそうだ。そして不合格の重なるものは量目の超過にあるので、一挺二十斤を超ゆるものさへあった様だ。コンナ樽を造る人買う人共に公徳心は皆無であるのかしら、もっとも検査も充分に厳格にやって欲しい。
(二十二)砂糖生産者同業組合
この同業組合の話は春の口張糖事件の時から起った問題である。つまり口張糖の取締は生産者相互に■戒めてこれを直さんと効力がないと云うので至当の話だ。この位自然的に起って穏健進行しつつある問題は少い。もっとも糖商組合が同一の目的を以て曩に設立せられてあるのでその間の折合の一寸面白ないと云うのだが、いずれ後日何とか話はまとまるであろう。ここには只だこの問題がこの年から起ったことを云うて置けばよいのだ
以上の二十二項は一寸気付た重なもののみだが、この外に一寸云うて置きものもか二、三件ある。その一つは農業全体に最も重大の関係ある気象だ。大体に於てこの年の気候はよかった。只だ九月末の暴風………暴風とても本県の風としては弱い方で、作物に被害の多かったのは宮古位なもので、これよりもその後に四十日斗りも降雨のなかった後、甘蔗の発育を妨げたのは影響が太かった。しかしこの間■湿地の畑は却て発育がなかった。要するに余り文句のない年だった。そしてこの年位に問題になりそうでならなかったのは、堆肥奨励と稲作改良のことだ。人造肥料の使用の盛大になるに反して堆肥の使用が衰微する傾向がありはせぬかよし衰へぬまで盛にならぬのはよくない。元が盛へずに先きが盛ると風にも倒れ易い様な訳である。そから稲作のことは余り人が注意せぬ様だが、仲吉君とは話した事もある。今の五万石か十万石になるのは易いことであって、しかも大に有益である。勿論反別を増大とは六ヶ敷いとしても耕作法に改良の仕方あろう。一反歩二斗か三斗の収穫とは惜けない野菜の供給は大分増した。もっとも那覇附近に於てしかし一定の時期に凡そ一定した品物即ち茄子、胡瓜、葱、大根、牛蒡、菜豆、甘藍の様なものが見へる将来はもっと時期の永きに亘り種類の多きを供給して貰い度い。これを要するに平凡の一年間にも以上の如き出来事はある。今年は上下内外総てしっかりやって■農業歴史に光彩を添ゆる様にしたい。そして来年の正月号にこの椵况を掲げて読者と楽を分ちたい (完)