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三浦丸船長の公判

掲載年月日:1910/11/1(火) 明治43年
メディア:琉球新報社 1面 種別:記事

原文表記

●三浦丸船長の公判
三浦丸船長仲村渠盛祿に關する第二回の公判は昨日午前九時より地方裁判所の第一法廷にて裁判長黑木判事、陪審水谷野上兩判事、馬渡撿事、佐伯書記着席して開廷したり
▲傍聽席の滿員
被告仲村渠盛祿はセルの着物に縞の袷羽織を着け白足袋を穿ちて手錠を嵌め深編笠■被りたる儘二名の巡査に護衛されて入り來り静かに笠を脱し手錠を去り伏目勝になりて佇立せり傍聽人は敎習巡査數十名の外一般傍聽人も百餘名に達したる爲め席に溢れて窓の外より覗き或は木に攀ぢ石垣に上つて廷内の模様を見るなど第一回公判當時に劣らぬ混雜なりき
▲被告の訊問
黑木判事は先づ被告に向ひ高聲に答辨す可きを注意して訊問に移る曰く船客と貨物は古邊底避難前に乘りしや(答)避難前にも少しはありしが多くは古邊底より歸りて後の事なり(判)船客が四十六名で貨物が三十一個に相違なきや(答)然り(判)三浦丸の定員は何名にて又貨物の重き事はなきか(答)定員は百二十一名にて貨物の重き事はなし(判)三浦丸は何時頃の建造なりや近頃大修繕を爲せし事はなきか(答)明治卅三年十一月の建造にて今年六月に船底の破損を修繕せり(判)三浦丸には氣象の觀測に■する設備はなきか(答)晴雨計と寒暖計を備ふ(判)被告は海員として經驗以外専門の敎育を受けし事ありや(答)卅八年九月より十二月迄大阪にて講習を受けし事あり(判)航海中自分て晴雨計を測りしや(答)然り(判)果して然らば氣壓の昇降と風力などで凪を待つの効あると否とは分る筈と思ふは如何(答)凪位南に變じたるを以て今二三時間も經てば靜穏に歸す可しと思へり
▲假泊前後の事情
茲に於て判事は實地撿証の上作製したる見取圖を示して實地に相違なき旨を確めて假碇泊の地位は三重城より二百四十間程の所なりやと問ひしに被告は四百間乃至五百間なりと答へ其間非常なる相違あるを以て撿事は撿証の際被告を立ち合わせて實測したる結果は二百四十間にあらずやと反復するも被告は海圖の示す所四百間以上の所なりしと主張せり然らば假泊の地點より暗礁迄の距離如何との問に對し暫時躊躇して約百間なりと答ふ(判)船の那覇に來た時宮島と金澤は港の右側に碇泊し居りて水上派出所の前面には多少の餘地ありし事は事實か(答)然り(判)測候所の回答に依れば十日の午後五時六時頃は風力十一米突四乃至五にて五時半頃殘波岬通過の時と殆んど同風力なるに拘らず港内に入れざりしは如何(答)障害物あれば如何ともし難し(判)障害物とは宮嶋金澤のロツプを指すものならんが兎に角水上署附近まで入れ得るとせば何故に此處まで船を入れてから碇泊する事をせざりしや(答)當時の天候ロツプを懸くる能はず水上附近は両岸相近く此處に碇泊するの危險なるを見たればなり
▲被告の不注意
裁判長は午後五時頃に錨の切れたる事ワイヤロツプマニラロツプの二挺が切れて平常使用せる鉄鎖の二挺が殘りし旨被告の陳述を聞き終るや直ちに訊問の歩を進めて曰く被告は風の止まざるを悟つて船を岩に乘り上げんとし機關長に運轉の用意を命じたる事ありと云ふそは何時頃か(答)七時半から八時迄の間なり(判)若し豫定通り岩に乘り上げても多少人命に危險かありや(答)然り(判)果して然らば被告は七時半頃からは其儘居つても又岩に乘り上げても何れにしても人命の危險なるを悟りし譯なり然るに此際に至るも猶ほブイと傳馬の手當を爲さゞるは何が故ぞと鋭く問ひ詰むるや被告は窮して答ふる所なく判事の督促■ばなるに及んで漸くブイは未だ檢査を受けざるものなればヽヽヽと低聲にて聞き取り難きも要するに何等かの遁■を以て其銳鋒を避けんとするより判事は勵聲叱咤、危險の免れざるを知って猶ほブイの手當を爲さゞるは畢竟故意か狼狽か不注意の結果ならざる可らず三者の中果して何れぞと疊み掛けられて被告は遂に包み切れず當時は其考が浮ばざりしと陳述して自分の不注意を白狀せり
▲最上の手段は何如
判事は玆に訊問の方向を轉じて曰く被告が今から考えて見て最も適當の手段と思はるゝものは如何(答)十一日の午後三時頃風の少し静まりし時錨を上げるが切るかして港内には救助信號をして置いて屋良座の後の淺瀨に乘り上ぐるを以て最上の手段と思へり云々夫より判事は被告の攫へし際風の爲めに吹き折れしと云ふ船橋の欗の太さを問ひ被告が約三寸に二寸五分位の木なりと答ふるや更に其圖を書かしめた■後問を發して三浦丸■備へ付く可きブイの規定の數が四個にして遭難當時日用品を入るゝ室内に錠を下して仕舞ひ込みありし事、船客が甲板の室艫の下表の下の三室に収容されて居たる事を聞き特別の待遇を爲せる平良保一氏以下七名が嶋袋■二の外皆死せ■を見れば被告は遭難の際■船客には何等の注意をも與へざりしならんと云へば被告は否注意を與へたりと辯じて玆に一應被告の訊問を終りて証人の審問に■れり
▲九塲警部の証言
証人として久塲警部最初に喚び出され判事■訊問に答へて曰く警察としては測候所の警報を名護に傅ふる設備な■余の三浦丸を見しは難破の翌々日即十三日の日なり但し難破の當夜九時過水上署迄行きしも何分かの天候なれば■を見る能なざりしなり又暇令其時非常信號ありとも陸上より之と救護し得可き見込は無かりき而して余の水上署にあるや十時過ぎの頃と覺ゆ大宜味の松本松吉と云ふ人が仝處に泳ぎ付いて來て始めて難破の事實を知り暫くして又一名の婦人が上り來りしかば何れも應急の手當をしてやり十一時頃警察に歸って見れば仲村渠巡査が舩長上陸の事を聞■警察に仝行し來れる所なりき船長は警察に來る時には舩員二名に扶けられて來りし由、顔色はいたく靑ざめ他の船員が腰掛にありしに反し彼は板敷の上に呉座を敷きて其上に端座し居り多少疲労の体は見へたるも歸る時には自ら歩行して行けり而して余の調査せる所に依り彼是時間を綜合して見れば船長の上陸は水上署に上陸せるものよりも早しと思ふ
▲國吉山の証言
難破當夜氣笛の鳴りしは九時前なりしが十時五分前になって表の方に何やら人の倒るゝ音あり火を照らして見れば三浦丸の船長なるにぞ急ぎ屋内に擔ぎ入れ白の櫬衣と猿股を着し居るを着替へさせなどせしに船長は余に向って三浦丸難破の旨を語り自分は警察に行く積りにて來れりとの事なりしも余は之を止め警察の方へは使用人を走らして之を急報すると共に他の上陸者もあらんかと三重城に赴きし處仲村渠と又吉と云へる船員が船長を探し廻はるに遭ひ仝行して家に歸り彼等をして船長を扶けて警察に至らしめたり當時宅の時計は十時五分前を示せり船長の身体には格別負傷の模樣などは見へざりき
▲麓義即氏の証言
假泊地点に投錨せしは五時半頃と覺ゆ名護發の時は多少風は强かりしも左■の事は無かる可しと思ひぬ假泊中水夫長に何とかして水上署附近迄行く工夫なきやと問ひしも此天氣ではとの答にて余も亦職務外の事なれば重ねて云ふに及ばざりき
▲前進號令の有無
判事は進んで船長は何時頃機■部の方に運轉の用意を命令せしやこの問に■し機關長の麓義即氏は答へて曰く船長は攔岸の目的なりしならん七時過運轉の用意を命せしに依り余は早速點火せしめ置きしに八時頃舩長は水夫長を以て前進の命令を傅へしめたるにぞ直ちにエンジンを廻はす事にせしが凡り一分間程經過せし頃止めの號令あり卽ち機■の運轉を止めて待つ事約十五分にして再び前進の號令ありしも二度目の命令に■つて船尾の方に再度非常の音響を發したり船は此時既に暗礁に乘り上げたるものゝ如く二度目の命令に從って機關の運轉を爲さんとするもスクルーが岩に觸れて動かず仝時に船は四十度の傾斜を爲して顚覆するに至りぬと云うや船長は何故にや側より口を出して頻りに前進の命令を下したる事なしと打ち消し居たりき
▲船長上陸の問題
判事は更に麓機關長に向ひ最後に舩長を見し時の狀態を問ふ曰く七時過自分の室より出て左舷■方を通りて正さに機關室に入らんとする時舩長がセルのヅボンにシャツを着て右舷の方に立てるを見たのが最後なりき(判)被告は最後まで上衣を着て居たと云ふ事なるが如何(答)そは知らず余の見し時は確かにシャツなりき(判)証人は如何にして海に投ぜしか其時の舩客の狀况如何(答)余は機關室にあり顚覆と共に海に投げ出され夫處に一間四方程の板のあるに取り着きて漂着したるが其時船の方は唯甲板の室に二三の人影あるを見たるのみ別に船客の騒動せる■樣は認めざりき云々斯くて判事の訊問終るや馬渡檢事は麓氏に對して証人は警察にて二度目の音響のありし時船長は船の中央部にありしが夬處から海に飛び込んで上陸したりとの申立てを爲したるが果して夫に相違なきやと問ひしに麓氏は之を打ち消し市田と云へる舩員に遭ひし時彼が其時舩長の舩の中央部に立てるを見たりとの話なりしかば其儘警察にて陳述したる事はあるも市田も舩長の海に入るを見たとは云せず余も亦警察にて左樣の申立を爲せし事なしと辦じ檢事は警察の報告書と矛盾する旨を告げて幾度か念を押したるも斷じて云はずと主張す時に午後零時十分、一先づ公判を中止する事となれり
▲午後の訟挺
一時二拾五分午前に引續き開廷、仲村渠船長に對し三四審問あり、船長は座礁の瞬間自分が船首にありたるを知り居るものは舵手■市田お水夫の又吉等なり云々
右終はりて証人舵手市田正三出廷、裁判長は三浦丸着海■投錨の順序時刻を尋ねたる■舵を握りしことありやを問ひ証人其後舵■握らずとの答を得、問七時と八時の間水夫石川と又吉と交替の後証人が又吉とゝ共にアンガーの看張番と爲したる際■長は廻はり來れりと云ふ其の時刻は如何答七時過ぎ■覺ふ夫れより舩長は艫に向ひて左の方を返り行き自分も用事ありて又た其の右の方を取り艫の方へ行つゝありと■舩長の姿は見へずなりたり舩長當時の服装は立■のズボンに折襟附き■服■米利堅帽を着せり、舩の傾斜せし時右舷の傅■は見へ居たり、■波は甲板に打上ける程に高からず、舩體危險に瀕してよりも何等■命令を聽かず二時五分前証人椿水夫長出廷、裁判長の問いに對する証人の答辯要■左の如し
當時舩長は自分と艫の方あな■淺深測定を命じ且つ曰く若し水淺に當らば水上派出所の方に向ひ乘せ附ける考なるを云ひ聞かせたり、自分の測定は二度試み爾度共八尋を得て此の事を報告したり時に午後六時頃■機關に點火を命したるは自分也、最初は用意を言付けたき七時頃淺瀨を認めたるも舩長は表ての向■に行きてとらす自分獨斷にて之を命じたり太凡五分計りを運轉したる■ストップして少し過ぎ艫が岩に觸れし故舩長に報告せしも聽へしや否を知らず、船の乘せ上げたのは八時頃なりと覺ふ云々
裁判長は機關長の答辯と相違の廉を質し次きに舩長の服装を問ふ答白の洋手拭に頰被りをなし白色のズボン黑の上服を着ブリッヂより下りて艫の方へ行きつゝあるを見た其の姿を見て自分は表に行き又た引返し艫の方へ行く時船長は仝装にて二等室内の客を引き出救護に從事せるを見し、傾斜の■人顏は三間位隔ては見分け得ると想ふ自分の舩長を見たるは約二間隔ありし、傾斜の當時乘客などは到底ブリッジに乘り得べからざるも舩員ならば出來得べし云々夫れより問題は舩内備附の救命器に及び証人曰く救命器丸形のもの規則には四個備附くべき定なるも舟には二個を備へ附けあるのみ此の事舩長も■く承知せり其の他非常用の小形の救命器は二拾四五を用意■■たるも舩室に格護して鍵を下しあり■出■與ふることをせざりし云々
右の後証人市田某、水夫長椿の二人は交々して再呼出を受け舩體覆沒前に於ける舩長を見たりし時刻、其の服装等に就き訊問を受け、裁判長は各証人間答辯相違の諸點に就質す所あり三浦丸乘組舩員油差仲村渠仁王の訊問を行ひ三時三拾五分合議の為退廷したる後次回の公判は來る十一月四日午前に開き証人として仲村渠龜、又吉某二人を取訊ぶる旨を告け閉廷

現代仮名遣い表記

●三浦丸船長の公判
三浦丸船長仲村渠盛禄に関する第二回の公判は、昨日午前九時より地方裁判所の第一法廷にて裁判長黒木判事、陪審水谷野上両判事、馬渡撿事、佐伯書記着席して開廷したり。
▲傍聴席の満員
被告仲村渠盛禄はセルの着物に縞の袷羽織を着け白足袋を穿ちて手錠を嵌め深編笠■被りたる儘二名の巡査に護衛されて入り来り静かに笠を脱し手錠を去り伏目勝になりて佇立せり。傍聴人は教習巡査数十名の外一般傍聴人も百余名に達したる為め席に溢れて、窓の外より覗き或は木に攀ぢ石垣に上つて廷内の模様を見るなど第一回公判当時に劣らぬ混雑なりき。
▲被告の訊問
黒木判事は先づ被告に向ひ高声に答弁す可きを注意して訊問に移る曰く、船客と貨物は古辺底避難前に乗りしや(答)避難前にも少しはありしが多くは古辺底より帰りて後の事なり(判)船客が四十六名で貨物が三十一個に相違なきや(答)然り(判)三浦丸の定員は何名にて又貨物の重き事はなきか(答)定員は百二十一名にて貨物の重き事はなし(判)三浦丸は何時頃の建造なりや近頃大修繕を為せし事はなきか(答)明治三十三年十一月の建造にて今年六月に船底の破損を修繕せり(判)三浦丸には気象の観測に■する設備はなきか(答)晴雨計と寒暖計を備ふ(判)被告は海員として経験以外専門の教育を受けし事ありや(答)三十八年九月より十二月迄大阪にて講習を受けし事あり(判)航海中自分て晴雨計を測りしや(答)然り(判)果して然らば気圧の昇降と風力などで凪を待つの効あると否とは分る筈と思ふは如何(答)凪位南に変じたるを以て今二三時間も経てば静穏に帰す可しと思へり。
▲仮泊前後の事情
茲に於て判事は、実地撿証の上作製したる見取図を示して実地に相違なき旨を確めて仮碇泊の地位は三重城より二百四十間程の所なりと問ひしに被告は四百間乃至五百間なりやと答へ其間非常なる相違あるを以て撿事は撿証の際被告を立ち合わせて実測したる結果は、二百四十間にあらずやと反復するも被告は海図の示す所四百間以上の所なりしと主張せり。然らば仮泊の地点より暗礁迄の距離如何との問に対し暫時躊躇して約百間なりと答ふ(判)船の那覇に来た時宮島と金沢は港の右側に碇泊し居りて水上派出所の前面には多少の余地ありし事は事実か(答)然り(判)測候所の回答に依れば十日の午後五時六時頃は風力十一米突四乃至五にて五時半頃残波岬通過の時と殆んど同風力なるに拘らず港内に入れざりしは如何(答)障害物あれば如何ともし難し(判)障害物とは宮嶋金沢のロツプを指すものならんが兎に角水上署附近まで入れ得るとせば何故に此処まで船を入れてから碇泊する事をせざりしや(答)当時の天候ロツプを懸くる能はず水上附近は両岸相近く此処に碇泊するの危険なるを見たればなり。
▲被告の不注意
裁判長は午後五時頃に錨の切れたる事ワイヤロツプマニラロツプの二挺が切れて平常使用せる鉄鎖の二挺が残りし旨被告の陳述を聞き終るや直ちに訊問の歩を進めて曰く被告は風の止まざるを悟つて船を岩に乗り上げんとし機関長に運転の用意を命じたる事ありと云ふそは何時頃か(答)七時半から八時迄の間なり(判)若し予定通り岩に乗り上げても多少人命に危険かありや(答)然り(判)果して然らば被告は七時半頃からは、其儘居つても又岩に乗り上げても何れにしても人命の危険なるを悟りし訳なり然るに此際に至るも猶ほブイと伝馬の手当を為さざるは何が故ぞと鋭く問ひ詰むるや、被告は窮して答ふる所なく判事の督促■ばなるに及んで漸くブイは未だ検査を受けざるものなればヽヽヽと低声にて聞き取り難きも要するに何等かの遁■を以て其鋭鋒を避けんとするより判事は励声叱咤、危険の免れざるを知って猶ほブイの手当を為さゞるは畢竟故意か狼狽か不注意の結果ならざる可らず三者の中果して何れぞと畳み掛けられて、被告は遂に包み切れず当時は其考が浮ばざりしと陳述して自分の不注意を白状せり。
▲最上の手段は何如
判事は玆に訊問の方向を転じて曰く被告が今から考えて見て最も適当の手段と思はるるものは如何(答)十一日の午後三時頃風の少し静まりし時、錨を上げるが切るかして港内には救助信号をして置いて屋良座の後の浅瀬に乗り上ぐるを以て最上の手段と思へり云々。夫より判事は被告の攫へし際風の為めに吹き折れしと云ふ船橋の欗の太さを問ひ被告が約三寸に二寸五分位の木なりと答ふるや更に其図を書かしめた■後問を発して三浦丸■備へ付く可きブイの規定の数が四個にして遭難当時日用品を入るる室内に錠を下して仕舞ひ込みありし事、船客が甲板の室艫の下表の下の三室に収容されて居たる事を聞き特別の待遇を為せる平良保一氏以下七名が嶋袋■二の外皆死せ■を見れば被告は遭難の際■船客には何等の注意をも与へざりしならんと云へば被告は否注意を与へたりと弁じて玆に一応被告の訊問を終りて証人の審問に■れり。
▲九塲警部の証言
証人として久塲警部最初に喚び出され判事■訊問に答へて曰く、警察としては測候所の警報を名護に傅ふる設備な■余の三浦丸を見しは難破の翌々日即十三日の日なり但し難破の当夜九時過水上署 迄行きしも何分かの天候なれば■を見る能なざりしなり。又暇令其時非常信号ありとも陸上より之と救護し得可き見込は無かりき而して余の水上署にあるや十時過ぎの頃と覚ゆ大宜味の松本松吉と云う人が同処に泳ぎ付いて来て始めて、難破の事実を知り暫くして又一名の婦人が上り来りしかば何れも応急の手当をしてやり十一時頃警察に帰って見れば、仲村渠巡査が舩長上陸の事を聞■警察に同行し来れる所なりき。船長は警察に来る時には舩員二名に扶けられて来りし由、顔色はいたく青ざめ他の船員が腰掛にありしに反し彼は板敷の上に呉座を敷きて其上に端座し居り多少疲労の体は見へたるも帰る時には自ら歩行して行けり而して余の調査せる所に依り彼是時間を綜合して見れば船長の上陸は水上署に上陸せるものよりも早しと思ふ。
▲国吉山の証言
難破当夜気笛の鳴りしは九時前なりしが、十時五分前になって表の方に何やら人の倒るる音あり火を照らして見れば、三浦丸の船長なるにぞ急ぎ屋内に担ぎ入れ白の櫬衣と猿股を着し居るを着替へさせなどせしに船長は余に向って、三浦丸難破の旨を語り自分は警察に行く積りにて来れりとの事なりしも余は之を止め警察の方へは使用人を走らして之を急報すると共に他の上陸者もあらんかと三重城に赴きし処仲村渠と又吉と云へる船員が船長を探し廻はるに遭ひ同行して、家に帰り彼等をして船長を扶けて警察に至らしめたり当時宅の時計は十時五分前を示せり船長の身体には格別負傷の模様などは見へざりき。
▲麓義即氏の証言
仮泊地点に投錨せしは五時半頃と覚ゆ名護発の時は、多少風は強かりしも左■の事は無かる可しと思ひぬ仮泊中水夫長に何とかして水上署附近迄行く工夫なきやと問ひしも此天気ではとの答にて余も亦職務外の事なれば重ねて云ふに及ばざりき。
▲前進号令の有無
判事は進んで船長は、何時頃機■部の方に運轉の用意を命令せしやこの問に■し機関長の麓義即氏は答へて曰く船長は攔岸の目的なりしならん七時過運転の用意を命せしに依り、余は早速点火せしめ置きしに八時頃舩長は水夫長を以て、前進の命令を傅へしめたるにぞ直ちにエンジンを廻はす事にせしが凡り一分間程経過せし頃止めの号令あり卽ち機■の運転を止めて待つ事約十五分にして再び前進の号令ありしも二度目の命令に■つて船尾の方に再度非常の音響を発したり船は此時既に暗礁に乗り上げたるものの如く、二度目の命令に従って機関の運転を為さんとするもスクルーが岩に触れて動かず同時に船は四十度の傾斜を為して顛覆するに至りぬと云うや船長は何故にや側より口を出して頻りに前進の命令を下したる事なしと打ち消し居たりき。
▲船長上陸の問題
判事は更に麓機関長に向ひ、最後に舩長を見し時の状態を問ふ曰く七時過自分の室より出て左舷■方を通りて、正さに機関室に入らんとする時舩長がセルのヅボンにシャツを着て、右舷の方に立てるを見たのが最後なりき(判)被告は最後まで上衣を着て居たと云ふ事なるが、如何(答)そは知らず余の見し時は確かにシャツなりき(判)証人は如何にして海に投ぜしか其時の舩客の状况如何(答)余は機関室にあり顛覆と共に海に投げ出され夫処に一間四方程の板のあるに取り着きて漂着したるが、其時船の方は唯甲板の室に二三の人影あるを見たるのみ別に船客の騒動せる■様は認めざりき云々斯くて判事の訊問終るや馬渡検事は麓氏に対して証人は警察にて二度目の音響のありし時、船長は船の中央部にありしが夬処から海に飛び込んで上陸したりとの申立てを為したるが、果して夫に相違なきやと問ひしに麓氏は之を打ち消し市田と云へる舩員に遭ひし時、彼が其時舩長の舩の中央部に立てるを見たりとの話なり。しかば其儘警察にて陳述したる事はあるも市田も舩長の海に入るを見たとは云せず、余も亦警察にて左様の申立を為せし事なしと辦じ検事は警察の報告書と矛盾する旨を告げて幾度か念を押したるも断じて云はずと主張す時に午後零時十分、一先づ公判を中止する事となれり。
▲午後の訟挺
一時二拾五分午前に引続き開廷、仲村渠船長に対し三四審問あり、船長は座礁の瞬間自分が船首にありたるを知り居るものは舵手■市田お水夫の又吉等なり云々。
右終はりて証人舵手市田正三出廷、裁判長は三浦丸着海■投錨の順序時刻を尋ねたる■舵を握りしことありやを問ひ証人其後舵■握らずとの答を得、問七時と八時の間水夫石川と又吉と交替の後証人が又吉とと共にアンガーの看張番と為したる際■長は廻はり来れりと云ふ。其の時刻は如何答七時過ぎ■覚ふ夫れより舩長は艫に向ひて左の方を返り行き、自分も用事ありて又た其の右の方を取り艫の方へ行つつありと■舩長の姿は見へずなりたり舩長当時の服装は立■のズボンに折襟附き■服■米利堅帽を着せり、舩の傾斜せし時右舷の傅■は見へ居たり、■波は甲板に打上ける程に高からず、舩体危険に瀕してよりも何等■命令を聴かず二時五分前証人椿水夫長出廷、裁判長の問いに対する証人の答弁要■左の如し。
当時舩長は自分と艫の方あな■浅深測定を命じ、且つ曰く若し水浅に当らば水上派出所の方に向ひ乗せ附ける考なるを云ひ聞かせたり、自分の測定は二度試み爾度共八尋を得て此の事を報告したり時に、午後六時頃■機関に点火を命したるは自分也、最初は用意を言付けたき七時頃浅瀬を認めたるも舩長は表ての向■に行きてとらす自分独断にて之を命じたり太凡五分計りを運転したる■ストップして少し過ぎ艫が岩に触れし故舩長に報告せしも聞へしや否を知らず、船の乗せ上げたのは八時頃なりと覚ふ云々
裁判長は機関長の答弁と相違の廉を質し次きに舩長の服装を問ふ答白の洋手拭に頬被りをなし白色のズボン黒の上服を着ブリッヂより下りて艫の方へ行きつつあるを見た其の姿を見て自分は表に行き又た引返し艫の方へ行く時船長は同装にて二等室内の客を引き出救護に従事せるを見し、傾斜の■人顔は三間位隔ては見分け得ると想ふ自分の舩長を見たるは約二間隔ありし、傾斜の当時乗客などは到底ブリッジに乗り得べからざるも舩員ならば出来得べし云々。夫れより問題は舩内備附の救命器に及び証人曰く救命器丸形のもの規則には四個備附くべき定なるも舟には二個を備へ附けあるのみ。此の事舩長も■く承知せり其の他非常用の小形の救命器は二拾四五を用意■■たるも舩室に格護して鍵を下しあり■出■与ふることをせざりし云々。
右の後証人市田某、水夫長椿の二人は交々して再呼出を受け、舩体覆没前に於ける舩長を見たりし時刻、其の服装等に就き訊問を受け、裁判長は各証人間答弁相違の諸点に就質す所あり三浦丸乗組舩員油差仲村渠仁王の訊問を行ひ三時三拾五分合議の為退廷したる後、次回の公判は来る十一月四日午前に開き証人として仲村渠亀、又吉某二人を取訊ぶる旨を告け閉廷。