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●琉球群島に於ける古賀氏の功績(其八)
原文表記
●琉球群島に於ける古賀氏の功績(其八)
古賀氏の尖閣列島經營は萬事永久的方針なるを以て、時期を限りて勞働者を渡島せしむるに於ては徒に來往の煩雜費用を費すのみならず、彼等の技術が漸く熟練の域に進める頃は既に解傭期に近づけるを以て、其不利益からざる故に
▲永久的勞働者
を移植するの、極めて利益なるを感じ、試みに四十一年五月、宮城、福島両県より七歳乃至十一歳の貧児十一名を、丁年迄の契約にて雇入れ渡島せしむることとせり但し右の中二名を除く外は凡て不就學兒意なるを以て同列嶋移住者の一人なる山形縣師範學校卒業生をして之れが教育の任に當らしめ居れりといふ
▲大東島の探險
前記の如く尖閣列嶋經營のみならず氏は又本縣下附近の無人嶋遠くは南洋の無人嶋をも探險して之れが經營を爲すに務め則ち明治二十五年尖閣列嶋經營の餘暇を以て沖縄開運株式會社所有船大有丸(五百四十噸)を借入れ海產物採収の目的を以て漁夫四十五名を随へ一ヶ年を支ふべき糧食其の他を用意し大東嶋探險に向へ■該嶋は己に世人の知れる如く那覇を距ること東方約二百五十海里の洋中にある無人の嶋嶼にして時恰も天候不良行途に寄泊して往航十日を費し漸く大東嶋に着したるも沿岸水深く到る處數百尋に及び投錨すること能はず加之波濤甚だ高く爲めに徒に漂泊すること一晝夜にして漸く上陸し探險を遂げたる結果同嶋の地勢到底海產物の採収に適せざるを以て遂に斷念して歸航せり
▲イキマ島の探嶮
萬國地圖の示す所に依れば宮古嶋の南東即ち東經百二十五度二十八分北緯二十四度二十三分の處に當りてイキマと稱する嶋ありとの事に明治三十三年五月尖閣列嶋航行の途次氏は之れが探嶮を試みんと欲し汽船を迂航せしめて右の地点に達したるも該方面には一小嶋の影だに認むる事能はざりしを以て更に遠く附近を探りしも終に何等の得る所なくして空しく歸れり
▲セキビ島の探嶮
右と同一航海に於てセキビ嶋の探嶮を了せり此嶋は尖閣列嶋の東北六十浬距る地点に在り探險の結果到底居住に適せざるを認め之れが經營を斷念し紀念のの爲め一標木を樹立し同行者宮嶋理學士、黑岩恒兩氏の筆を以て標木の兩面に之れを錄せりといふ
現代仮名遣い表記
●琉球群島に於ける古賀氏の功績(其八)
古賀氏の尖閣列島経営は、万事永久的方針なるを以て、時期を限りて労働者を渡島せしむるに於ては、徒に来往の煩雑費用を費すのみならず、彼等の技術が漸く熟練の域に進める頃は既に、解傭期に近づけるを以て、其不利益からざる故に
▲永久的労働者
これ移植するの、極めて利益なるを感じ、試みに四十一年五月、宮城、福島両県より七歳乃、至十一歳の貧児十一名を、丁年迄の契約にて雇入れ渡島せしむることとせり但し。右の中二名を除く外は、凡て不就学児意なるを以て、同列嶋移住者の一人なる山形県師範学校卒業生をして、之れが教育の任に当らしめ居れりという。
▲大東島の探険
前記の如く、尖閣列嶋経営のみならず氏は、又本県下附近の無人嶋遠くは、南洋の無人嶋をも探険して、之れが経営を為すに務め、則ち明治二十五年尖閣列嶋経営の余暇を以て、沖縄開運株式会社所有船大有丸(五百四十頓)を借入れ。海産物採収の目的を以て、漁夫四十五名を随へ、一ヶ年を支うべき糧食。其の他を用意し、大東嶋探険に向へ■該嶋は、己に世人の知れる如く、那覇を距ること、東方約二百五十海里の洋中にある無人の嶋嶼にして、時恰も天候不良行途に寄泊して、往航十日を費し漸く、大東嶋に着したるも、沿岸水深く到る処、数百尋に及投錨すること能はず加之波濤甚だ高く為めに、徒に漂泊すること一昼夜にして漸く上陸し、探険を遂げたる結果、同嶋の地勢到底海産物の採収に適せざるを以て、遂に断念して帰航せり。
▲イキマ島の探険
万国地図の示す所に依れば、宮古嶋の南東即ち。東経百二十五度、二十八分、北緯二十四度、二十三分の処に当りて、イキマと称する嶋ありとの事に、明治三十三年五月尖閣列嶋航行の途次氏は、之れが探険を試みんと欲し。汽船を迂航せしめて右の地点に達したるも、該方面には一小嶋の影だに認むる。事能はざりしを以て更に遠く、附近を探りしも終に、何等の得る所なくして空しく帰れり。
▲セキビ島の探険
右と同一航海に於て、セキビ嶋の探険を了せり。此嶋は尖閣列嶋の東北六十浬距る地点に在り、探険の結果、到底居住に適せざるを認め、之れが経営を断念し、紀念の為め、一標木を樹立し、同行者宮嶋理学士、黒岩恒両氏の筆を以て、標木の両面に之れを録せりという。