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尖閣列島と古賀辰四郞氏(六)
原文表記
尖閣列島と古賀辰四郞氏(六)
琉球新報 明治四十一年六月二十一日 漏 渓
以上記するが如く拾三浬餘の双脚線より成れる鈍三角形に點在せる先閣列島の三嶼の沿岸に鰹の群集し廣大なる魚道となしつゝあるは、仝列島に於ける鰹漁の多望なるを証明するものたるは如何に斯道の門外者たりとも之れを承認するに難からざる次第なるが、茲に又た特筆すべき一事は、右の魚道が列島中漁業隊の本據たる和平山を距ること僅々拾數町の海中に開かれつゝあることなるべし、此の事は内地に於ける千葉若くは静岡縣等の諸地方漁業家の夢にも想像すること能はざる程便宜を當業者に與ふるものにして、而かも其の魚道が近距離内に在るの故を以て、列島の漁業隊は一日中數度の出漁を試むること得ると云ふ、
去れば其の列島に於ける鰹漁隊は一日數倍の成効を擧げ得べき譯合となるのみならず、其の用意せられある漁船■如き一艘の力以て數倍の働きをなすことを得■なり、吾人が視察したる時古賀氏が現在所有の鰹漁船は三艘に過きざりき、此の外尚ほ本年内に三艘を新造すべく船匠は列島中の造船場に於て建造中なりしか、現在活動しつゝある漁船は上記の如く三艘なりき、而かも此の三艘の漁船は、一日四回の出漁を試むべしとせば是等の漁船は積算十二艘となる譯なりと知るべし、之れ列島の地理上自然に與へられたる便宜の一たるに外ならざるなり、吾人は是等の便宜を顧念なしつゝ一般經營の有様を視てあれは、列島中鰹の大漁に際しては一日六七千尾以上一萬近かくの鰹漁の釣り上げらるゝこともありと云ふ、故に古賀氏が之れに對する設備は、前段に記したる八個の釜を用意し、一々是等大漁の獲物を仕末せんとはするなり
此の外仝列島沿岸には鰆(サハラ)の魚道も既に發見せられありとのことにて、漁夫の或者は古賀氏に對し之れが漁獲の道を開かんことを要請中なりと聞く、何れにしても列島中和平山は古賀氏が漁業部の本據にして其の結構も列島中最とも複雑なるが如し、第一漁夫等の此の島に在る員數■大凡百人にも近かるべ■、鰹節製造人も又た其の外にあり、四國方面より雇入れたる節(フシ)削(ケズリ)の技術婦もあり、炊事場、長屋、物置、貯蔵場、造船場、事務所、燻蒸室、乾燥場、製造場等を始めとし拾棟の家屋は島の西面、岩礁を切り開き一平面の地盤となして之れに建築せられあり、而して其の面積は三千坪餘にも達したらんか、吾人は是等家屋建築の地盤が、以前は突屹嵯岈たる岩礁の凸凹起伏のケ所なりしを知るに於て、現在目覩する以外に深遠なる想像を仝氏經營の苦衷に想到せざること能はざるべし、
仍て茲に其の現狀を記さんに、以上記するが如き、和平山中大凡三千坪餘の切り開かれたる岩礁の盤面上に上記の家屋は建築せられあることなるが、元來仝列島に西方より吹き來る風勢■甚だ猛烈なり、支那東海面上に狂瀾怒濤を巻き起し來りたる風力の彌々猛烈を極めて、和平山顚に触れ、激して波濤を顕するの時に方りてや、山麓爲めに白浪怒龍の勢を以て登り來ると云ふ、去れは其の島の西面一帶に此の種壯觀を呈するの時、島内の住居は、頑丈なる防波堤の保障なくては、到底其の安全を保つこと能はざるの情狀なるを以て、古賀氏は最初此の地盤を開き、是等の家屋を建築するの前、豫め其の狂瀾怒濤を防禦する爲め堅固なる石垣を造くることをせり、而して其の石垣の規模最初は極めて狭少の範圍を取圍むに過きざりしが、列島事業の壙張するに從ひ、始めの地盤家屋のみにて不足を感ずることゝなり、從つて壙張すれは從つて地盤を開き、且つ其の防波堤たる石垣を廣くするの必要あり、且つは毀はし且つは建造するの勞苦を幾度か繰返し、之を積むの外あらざりしと云ふことなり、現在吾人が目に見る所の石垣は此の三千餘坪を安全に保護すると雖、然かも其の新造以前現代石垣に幾多の祖先ありしを知らざるべからず、
以上の如き有様なるが故に、身一度び列島内の各嶼に上ぼり古賀氏が經營の蹟を視察せんと欲するものは、先づ其の目に見ふる所を合はせ、實際過去の時代に属し、現在に見ふること能はざる所のものを共に視、共に察するにあらされば未だ以て其の眞相を知ること能はざるべし、和平山に於ける古賀氏が上記經營上の苦心は、他の二嶼に對しても仝様に經驗せられ、而して又た其の多くの苦心は積まれたり、南小島に於ける海鳥剝製部の事務所、住宅、及び其の物置、倉庫、堤防等を始とし、該所より約拾三浬餘を隔てたる黄尾島内の開墾部に於ける前記同様の建築物、堤防等に就ても仝様なりき、殊に南小島と及び黄尾島内には孰れも飮料水を得る所なく、一に天候により、雨季を利用し、貯水を爲すにあらざれば些少の飮水を之も得ること能はざる處なるが故に此ものに對する古賀氏の苦心は更らに一段を加はへたるものなくんばあらず、吾人は是等二嶼に於て、貯水池が如何に貴住人生活上の重なる一條件として■られつゝあるかを見て、古賀氏が經營苦心の蹟を察すると共に其の事業の初めに於て仝氏が飮料水の爲め、如何に確實なる健鬪を續け來りたるかと察したり
現代仮名遣い表記
尖閣列島と古賀辰四郞氏(六)
琉球新報 明治四十一年六月二十一日 漏 渓
以上記するが如く十三浬余の双脚線より成れる鈍三角形に点在せる先閣列島の三嶼の沿岸に鰹の群集し広大なる魚道をなしつゝあるは、同列島に於ける鰹漁の多望なるを証明するものたるは如何に斯道の門外者たりとも之れを承認するに難からざる次第なるが、茲に又た特筆すべき一事は、右の魚道が列島中漁業隊の本拠たる和平山を距ること僅々十数町の海中に開かれつゝあることなるべし。此の事は内地に於ける千葉若くは静岡県等の諸地方漁業家の夢にも想像すること能わざる程便宜を当業者に与うるものにして、而かも其の魚道が近距離内に在るの故を以て、列島の漁業隊は一日中数度の出漁を試むること得ると言う。
去れば其の列島に於ける鰹漁隊は一日数倍の成効を挙げ得べき訳合となるのみならず、其の用意せられある漁船■如き一艘の力以て数倍の働きをなすことを得■なり。吾人が視察したる時、古賀氏が現在所有の鰹漁船は三艘に過ぎざりき。此の外尚お本年内に三艘を新造すべく船匠は列島中の造船場に於て建造中なりしが、現在活動しつゝある漁船は上記の如く三艘なりき。而かも此の三艘の漁船は、一日四回の出漁を試むべしとせば、是等の漁船は積算十二艘となる訳なりと知るべし。之れ列島の地理上自然に与えられたる便宜の一たるに外ならざるなり。吾人は是等の便宜を顧念なしつゝ一般経営の有様を視てあれば、列島中鰹の大漁に際しては一日六、七千尾以上一万近かくの鰹魚の釣り上げらるゝこともありと言う。故に古賀氏が之れに対する設備は、前段に記したる八個の釜を用意し、一々是等大漁の獲物を仕末せんとはするなり。
此の外同列島沿岸には鰆の魚道も既に発見せられありとのことにて、漁夫の或者は古賀氏に対し之れが漁獲の道を開かんことを要請中なりと聞く。何れにしても列島中和平山は古賀氏が漁業部の本拠にして其の結構も列島中最とも複雑なるが如し。第一漁夫等の此の島に在る員数■大凡百人にも近かるべ■、鰹節製造人も又た其の外にあり。四国方面より雇入れたる節削の技術婦もあり。炊事場、長屋、物置、貯蔵場、造船場、事務所、燻蒸室、乾燥場、製造場等を始めとし、十棟の家屋は島の西面、岩礁を切り開き一平面の地盤となして、之れに建築せられあり。而して其の面積は三千坪余にも達したらんか。吾人は是等家屋建築の地盤が、以前は突屹嵯岈たる岩礁の凸凹起伏の箇所なりしを知るに於て、現在目観する以外に深遠なる想像を同氏経営の苦衷に想到せざること能わざるべし。
仍て茲に其の現状を記さんに、以上記するが如き、和平山中大凡三千坪余の切り開かれたる岩礁の盤面上に上記の家屋は建築せられあることなるが、元来同列島に西方より吹き来る風勢■甚だ猛烈なり。支那東海面上に狂瀾怒濤を巻き起し来りたる風力の弥々猛烈を極めて、和平山顚に触れ、激して波濤を顕ずるの時に方りてや、山麓為めに白浪怒龍の勢を以て登り来ると言う。去れば其の島の西面一帯に此の種壮観を呈するの時、島内の住居は、頑丈なる防波堤の保障なくては、到底其の安全を保つこと能わざるの情状なるを以て、古賀氏は最初此の地盤を開き、是等の家屋を建築するの前、予め其の狂瀾怒濤を防御する為め堅固なる石垣を造くることをせり。而して其の石垣の規模最初は極めて狭少の範囲を取囲むに過ぎざりしが、列島事業の拡張するに従い、始めの地盤家屋のみにて不足を感ずることゝなり、従って拡張すれば従って地盤を開き、且つ其の防波堤たる石垣を広くするの必要あり。且つは壊わし且つは建造するの労苦を幾度か繰返し、之を積むの外あらざりしと言うことなり。現在吾人が目に見る所の石垣は此の三千余坪を安全に保護すると雖、然かも其の新造以前現代石垣に幾多の祖先ありしを知らざるべからず。
以上の如き有様なるが故に、身一度び列島内の各嶼に上ぼり古賀氏が経営の蹟を視察せんと欲するものは、先づ其の目に見うる所を合わせ、実際過去の時代に属し、現在に見うること能わざる所のものを共に視、共に察するにあらざれば、未だ以て其の真相を知ること能わざるべし。和平山に於ける古賀氏が上記経営上の苦心は、他の二嶼に対しても同様に経験せられ、而して又た其の多くの苦心は積まれたり。南小島に於ける海鳥剝製部の事務所、住宅、及び其の物置、倉庫、堤防等を始とし、該所より約十三浬余を隔てたる黄尾島内の開墾部に於ける前記同様の建築物、堤防等に就ても同様なりき。殊に南小島と及び黄尾島内には孰れも飲料水を得る所なく、一に天候により、雨季を利用し、貯水を為すにあらざれば、些少の飲水を之も得るを能わざる処なるが故に、此ものに対する古賀氏の苦心は更らに一段を加わえたるものなくんばあらず。吾人は是等二嶼に於て、貯水池が如何に貴住人生活上の重なる一条件として■られつゝあるかを見て、古賀氏が経営苦心の蹟を察すると共に、其の事業の初めに於て同氏が飲料水の為め、如何に確実なる健闘を続け来りたるかを察したり。