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尖閣列島と古賀辰四郞氏(三)
原文表記
尖閣列島と古賀辰四郞氏(三)
琉球新報 明治四十一年六月十八日 漏 渓
以上記するが如く、國家的觀念と自己獨創の天地を開拓せんことを期する一念により古賀辰四郞氏が尖閣列島に對する經營が如何に壯烈沈毅の事業的精神に基きたるものなるや、將た又た仝氏が列島經營に着手するに至るまで如何に深き根柢を豫め用意する所ありたるかに就き左に之れが概略を記して江湖の參考に供せん
抑も仝列島の經營者たる古賀氏は福岡縣八女郡の産なり、八女郡中に於ても輓近に至るまで上妻と稱へ來りたる一部の人民が剛毅活潑、節義を重んじて苟くも動くことなきは仝地方を視察したるものゝ等しく詳悉する所なり、而して其一度動かんとするや多の苦心惨澹たる計劃を自己心中に蓄へ、時機によりて發動するは仝縣内に於ても仝郡出身者の特異とする所■るが、古賀氏は■其の上妻郡の地方に生まれ、清き山岳谿水に呼吸し、而して後ち去りて本縣下に來りたるは實に明治十二年二月のことなりき、当時縣下は廃藩置縣の行はれ民情甚だ安からざるの一時なりしが、氏は心私かに是等の形勢に察する所あり、先づ其の天然に豊富なる海産業を與して以て遺利の集むべきものあるを示さんと欲し、取敢へずの事業としては、縣民上下、之を道路に遺棄して顧みる所なき貝殻の販路を開きたり、当時縣内、是等貝殻の金錢に代るべきやを疑ひたるものさへ之れありたりと云ふことなるが、後には右の販路の開くるに從ひ、收益の案外なるを今更の如くに感したるものもありと云ふことなり、斯くて其の道路に遺棄せられたる是等貝殻類の販路を開くより事業を起したる同氏が、八重山の如き遠隔未開の島嶼に支店を設置するに及びて、事業の端緒は次第に壙張せられ、又た複雑とはなりたるが、元來自家獨創の事業開拓を期さんとする仝氏にとりては、單に如斯き業務の進捗を見るのみを以て滿足すること能ハざるものあり、私に心を無人島經營に傾け新天新地を發見して以て國家に貢献する所なかるべからずとは氏■平生の希望なりしが故に、自身私かに海圖を案じ、又た縣下の言説に留心し居たるに、縣下には東方、大東島の群嶼あり、西には久場島、釣魚島等あること明になりたるのみならず、明治十五六年には、縣廳より出雲丸を艤装し吏員を派して實地を探檢する等のことあり、事情益々明白なるに及んで、一片の壮心愈々禁ずべからざるものなくんばあらざりき、即ち明治十七年に至りて、自家先づ一小艇を艤し、人を■はし、西方群島を探檢せしめたり、之れ實に仝氏が列島經營の初手にして、而かも其の列島の風景、或は樹林鬱茂として、流水湲々、以て大に人畜を養ふに足るべく、或は海鳥群棲して、天日尚ほ暗からんと歓するものあるのみならず、沿海には魚族甚だ豊富なると、自家當■の取扱商品たる貝類其の他の海産物もまた甚だ收穫すべき實景實情を詳悉することを得て、氏は断然として列島經營に決心せり、而かも其の仝列島の位置か前段既に記したるが如くに、琉球と福建との航路の中央に方りて、帝國政府の方針が敢て所轄權を爭はんと欲するものにあらざるを知るに於て、氏が領土壙張に關する國家的觀念は勃然として起り來たれり、
之れ古賀氏が列島經始より二十有五年間の奮鬪を續て倦むことなく、十年一日の如くに刻苦經營の勞を積んで益々業務の發展を見つゝある所以の動機にして而かもその經營の動機が斯くの如くに國家的觀念に動かされ、且つ其の事業が自家獨創的のものたるに於て、福岡縣下の上妻郡内、山水明媚、人情風土が前記の如き地方の出身者たる、古賀氏にとりては、多くの興味を快喫し來りて愈々苦しみ多々増々便するを禁じ得ざりし所以なるべし
仝氏が列島經營に對する事業の端緒は如斯吾人は以下、更らに進んで、仝氏が列島經營現狀が、如何に堅固頑丈にして、百年經營の基礎を据へつゝあるかを記さんとす
現代仮名遣い表記
尖閣列島と古賀辰四郞氏(三)
琉球新報 明治四十一年六月十八日 漏 渓
以上記するが如く、国家的観念と自己独創の天地を開拓せんことを期する一念により、古賀辰四郞氏が尖閣列島に対する経営が如何に壮烈沈毅の事業的精神に基きたるものなるや、将た又た同氏が列島経営に着手するに至るまで如何に深き根抵を予め用意する所ありたるかに就き、左に之れが概略を記して江湖の参考に供せん。
抑も同列島の経営者たる古賀氏は福岡県八女郡の産なり。八女郡中に於ても輓近に至るまで上妻と称え来りたる一部の人民が剛毅活発、節義を重んじて苟くも動くことなきは、同地方を視察したるものゝ等しく詳悉する所なり。而して其一度動かんとするや多の苦心惨澹たる計画を自己心中に蓄え、時機によりて発動するは、同県内に於ても同郡出身者の特異とする所■るが、古賀氏は■其の上妻郡の地方に生まれ、清き山岳渓水に呼吸し、而して後ち去りて本県下に来りたるは、実に明治十二年二月のことなりき。当時県下は廃藩置県の行われ、民情甚だ安からざるの一時なりしが、氏は心私かに是等の形勢に察する所あり。先づ其の天然に豊富なる海産業を興して以て遺利の集むべきものあるを示さんと欲し、取敢えずの事業としては、県民上下、之を道路に遺棄して顧みる所なき貝殻の販路を開きたり。当時県内、是等貝殻の金銭に代るべきやを疑いたるものさえ之れありたりと言うことなるが、後には右の販路の開くるに従い、収益の案外なるを今更の如くに感じたるものもありと言うことなり。斯くて其の道路に遺棄せられたる是等貝殻類の販路を開くより事業を起したる同氏が、八重山の如き遠隔未開の島嶼に支店を設置するに及びて、事業の端緒は次第に拡張せられ、又た複雑とはなりたるが、元来自家独創の事業開拓を期さんとする同氏にとりては、単に如斯き業務の進捗を見るのみを以て満足するを能わざるものあり。私に心を無人島経営に傾け、新天新地を発見して以て国家に貢献する所なかるべからずとは氏■平生の希望なりしが故に、自身私かに海図を案じ、又た県下の言説に留心し居たるに、県下には東方、大東島の群嶼あり、西には久場島、釣魚島等あること明になりたるのみならず、明治十五、六年には、県庁より出雲丸を艤装し、吏員を派して実地を探検する等のことあり。事情益々明白なるに及んで、一片の壮心愈々禁ずべからざるものなくんばあらざりき。即ち明治十七年に至りて、自家先づ一小艇を艤し、人を■はし、西方群島を探検せしめたり。之れ実に同氏が列島経営の初手にして、而かも其の列島の風景、或は樹林鬱茂として、流水湲々、以て大に人畜を養うに足るべく、或は海鳥群棲して、天日尚お暗からんと歓ずるものあるのみならず、沿海には魚族甚だ豊富なると、自家当■の取扱商品たる貝類其の他の海産物もまた甚だ収穫すべき実景実情を詳悉することを得て、氏は断然として列島経営に決心せり。而かも其の同列島の位置が前段既に記したるが如くに、琉球と福建との航路の中央に方りて、帝国政府の方針が敢て所轄権を争わんと欲するものにあらざるを知るに於て、氏が領土拡張に関する国家的観念は勃然として起り来たれり。
之れ古賀氏が列島経始より二十有五年間の奮闘を続て倦むことなく、十年一日の如くに刻苦経営の労を積んで益々業務の発展を見つゝある所以の動機にして、而かも其の経営の動機が斯くの如くに国家的観念に動かされ、且つ其の事業が自家独創的のものたるに於て、福岡県下の上妻郡内、山水明媚、人情風土が前記の如き地方の出身者たる古賀氏にとりては、多くの興味を快喫し来りて、愈々苦しみ多々増々便するを禁じ得ざりし所以なるべし。
同氏が列島経営に対する事業の端緒は如斯。吾人は以下、更らに進んで、同氏が列島経営現状が、如何に堅固頑丈にして、百年経営の基礎を据えつゝあるかを記さんとす。