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尖閣列島と古賀辰四郞氏(一)

掲載年月日:1908/6/15(月) 明治41年
メディア:琉球新報社 2面 種別:記事

原文表記

尖閣列島と古賀辰四郞氏(一)
 琉球新報 明治四十一年六月十五日  漏  渓

其の財を費やすこと三拾餘萬圓、年月を積むこと二拾有五年、尖閣列島の經營者たる古賀辰四郞氏が、單身創業的の勇氣を揮つて仝列島の爲め尽し來たれるもの亦た至れりと云はざるべからず、吾人は去月二十七日那覇出發の滊船球陽丸に乘込み、宮古八重山の兩先島視察を兼ねて、尖閣列島への旅行隊に伍し、仝列島の三嶼に上陸し親しく實地探査を遂げたる所によるに、古賀氏か仝島に對する經營の苦心極めて惨澹たるものあるを發見せり、而して其の事蹟により察するに、仝氏が最初に奮鬪したるものは飮用水を得んと欲するにありしが如し次に港灣の開鑿、以て傳馬船の出入自由を得んとすることに向つて有らゆる勞力を尽したるは歴々として窺ふべきものあり、其他仝島經營上の其礎となるべき家屋の建築、移住民の勸誘、食糧品の運搬等一々數へ來たれば、仝氏が經營着手以來二拾五年間の奮闘の歴史は、列島各所に於て之れを窺ふべきものゝみならざるはなき也然り而して其の事が直接間接に世益と達し、帝國若くは一縣地方利源の開拓となりて将來國家若くは一縣地方に貢献する所、甚だ大なるものなくんばあらず吾人は身親しく其の苦心多き經營の蹟を視察し、尊敬を拂つて仝氏が列島事業の一班を叙列せざること能はざるべし
抑も尖閣列島がホーアピンスウ其の他の名稱を以て、支那東海面の海圖上に明記されたるは決して近年のことにてはあらざるなり、泰西諸國の勢力が東漸を始めたるより欧米諸國の航海家が縦横に其占據地を求めんとする時、琉球列島が彼等の注目する所たりしは十九世紀後半の歴史に眼を晒らしたるものゝ等しく承認する所にして而かも其の勢力東漸の副産物として潮水支那八■に通するの處■尖閣列島の屹立するを注目し早くも之れに上記の如き名稱は附せられ航海業者の目標とはなされたり其外仝列島に就ては琉球■王國か明淸の兩朝廷に向つて進貢船の派遣を務めたりし時より、大陸的の岩層より成れる島嶼が三鼎の勢を爲して點在せるを發見したる事蹟もあり、而して其の列島の或者には峰頭雲烟の去來を絶へせず、而して又た他の或者には海鳥群飛、翺翔悲鳴して航路者に詩的感想を催さしめたることも之を窺ひ知るべき俚諺舊記の之れなきにあらず、去れば其の島嶼の存在に就ては單に琉球古人の詳知せる所たりしのみならず、世界の海圖上明白なるものとして記載せられたるなり、然かも其の明白なる存在の島嶼が==地層年代の變化によりて支那大陸と分立したるより其の後、以上の如き歐米の航海者若くは其の以前の琉球航海者により發見せられたる以後にても一人として之れ■事業的經營を試みたるものあらざりしなり、尤とも明治十五年六年の頃なるべ■沖繩縣廳が出雲丸を雇ひ入れ吏員を之れに搭乘せしめ實地に探檢したることありたるより、伊澤某なるもの私かに之れが經營を試みんとして奔走に勉めたることはなきにあらずと雖ども、然かも其の奔走は強ちに効を奏せざりしが遂に此の古賀氏の如き忍耐強く、刻苦の勞を積みて屈せず、困難と缺乏とに對し多大の勇氣を奮ひ起して、創業的手段を揮ふ事業家の經營により今日の狀態あるを得るに至れり去れば吾人は同列島の發見が久しき以前に在りたるを知ると同時に其の發見の儘海洋中の孤群島として抛棄せられたる仝列島に對して、敢て其の經營の手腕を加へたる古賀氏の勇氣と着眼の尋常ならざるものあるは、宜しく之れを記して以て一般に紹介の勞を執らさるべからず

現代仮名遣い表記

尖閣列島と古賀辰四郞氏(一) 
琉球新報 明治四十一年六月十五日  漏  渓

其の財を費やすこと三十余万円、年月を積むこと二十有五年。尖閣列島の経営者たる古賀辰四郞氏が、単身創業的の勇気を揮って同列島の為め尽し来たれるもの亦た至れりと言わざるべからず。吾人は去月二十七日那覇出発の汽船球陽丸に乗込み、宮古、八重山の両先島視察を兼ねて、尖閣列島への旅行隊に伍し、同列島の三嶼に上陸し、親しく実地探査を遂げたる所によるに、古賀氏が同島に対する経営の苦心極めて惨澹たるものあるを発見せり。而して其の事蹟により察するに、同氏が最初に奮闘したるものは飲用水を得んと欲するにありしが如し。次に港湾の開鑿、以て伝馬船の出入自由を得んとすることに向って有らゆる労力を尽したるは、歴々として伺うべきものあり。其他同島経営上の其礎となるべき家屋の建築、移住民の勧誘、食糧品の運搬等一々数え来たれば、同氏が経営着手以来二十五年間の奮闘の歴史は、列島各所に於て之れを伺うべきものゝみならざるはなき也。然り而して其の事が直接間接に世益を達し、帝国若くは一県地方利源の開拓となりて、将来国家若くは一県地方に貢献する所甚だ大なるものなくんばあらず。吾人は身親しく其の苦心多き経営の蹟を視察し、尊敬を払って同氏が列島事業の一班を叙列せざること能わざるべし。
抑も尖閣列島がホーアピンスウ其の他の名称を以て支那東海面の海図上に明記されたるは、決して近年のことにてはあらざるなり。泰西諸国の勢力が東漸を始めたるより、欧米諸国の航海家が縦横に其占拠地を求めんとする時、琉球列島が彼等の注目する所たりしは十九世紀後半の歴史に眼を晒らしたるものゝ等しく承認する所にして、而かも其の勢力東漸の副産物として潮水支那八■に通ずるの処■尖閣列島の屼立するを注目し、早くも之れに上記の如き名称は附せられ航海業者の目標とはなされたり。其外同列島に就ては琉球■王国が明清の両朝廷に向って進貢船の派遣を務めたりし時より、大陸的の岩層より成れる島嶼が三鼎の勢を為して点在せるを発見したる事蹟もあり。而して其の列島の或者には峰頭雲煙の去来を絶えせず。而して又た他の或者には海鳥群飛、翺翔悲鳴して航路者に詩的感想を催さしめたることも之を伺い知るべき俚諺旧記の之れなきにあらず。去れば其の島嶼の存在に就ては単に琉球古人の詳知せる所たりしのみならず、世界の海図上明白なるものとして記載せられたるなり。然かも其の明白なる存在の島嶼が=地層年代の変化によりて支那大陸と分立したるより其の後、以上の如き欧米の航海者若くは其の以前の琉球航海者により発見せられたる以後とても、一人として之れ■事業的経営を試みたるものあらざりしなり。尤とも明治十五、六年の頃なるべ■沖縄県庁が出雲丸を雇い入れ、吏員を之れに搭乗せしめ、実地に探検したることありたるより、伊澤某なるもの私かに之れが経営を試みんとして奔走に勉めたることはなきにあらずと雖ども、然かも其の奔走は強ちに効を奏せざりしが、遂に此の古賀氏の如き忍耐強く、刻苦の労を積みて屈せず、困難と欠乏とに対し多大の勇気を奮い起して創業的手段を揮う事業家の経営により、今日の状態あるを得るに至れり。去れば吾人は同列島の発見が久しき以前に在りたるを知ると同時に、其の発見の儘海洋中の孤群島として抛棄せられたる同列島に対して、敢て其の経営の手腕を加えたる古賀氏の勇気と着眼の尋常ならざるものあるは、宜しく之れを記して以て一般に紹介の労を執らざるべからず。