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本年縣下の漁業狀况(四)
原文表記
本年縣下の漁業狀况(四) 水産品評會開設の記事を賛す
琉球新報 明治四十年十二月十六日
玉 城 五 郞
◎■■■■ 此漁業も四五年以前はスルゝ採漁業者のスルゝを綱■するの傍副業的に■に營まれ曾て製節したことがなかつたが慶良間島に於て斯業の開始されし以來各沿岸に偆播するに至たのである今日最も主要の地は慶良間と本部間切であつて何れも拾隻以上の漁船を有し其の産額も貮万圓以上に上り其他産物中鰹節が第一位にあるのは此の二個所である其他今日斯業の根據地としては古賀辰四郞氏の無人島則ち尖閣列島八重山の與那國及び鳩間島、宮古、國頭の宜名眞邊であるが喜屋武隋及び久米、粟國、渡名喜、伊平屋の諸島も追々好■場となるに違ない扨て本年に於ける斯業者の廃置と産額の概算を言は尖閣列島に三艘で壹万八千圓内外八重山に四艘(糸満、垣花、他縣人)で壹万六千圓宮古貮艘(鮫島幸平)で五千六百圓慶良間島拾五艘で二万二千五百圓本部方面(本部船十三隻、及び大嶺、垣花北谷各一隻大宜味船三隻名護二隻及び濱田の船一隻)總計二十二隻で三万六千五百圓宜名眞方面二隻で二千七百圓其他喜屋武等の船を入るれば全縣下の産額如何しても拾万圓以上に上ているのである之を三四年■に比すれは五六倍も増し其の進歩實に大なると云ふべしであるが之れ主として本部間切に於ける潑展の然らしむる所である依て今左に同地に於ける潑展の原因及ひ現况を少しく記して見■う同地は一昨々年一隻の鰹船を購入し斯業に從事せしことあるが當時未だ經驗なかりし爲め失敗に歸し船も他に賣却するに至りしも同地金■安吉、仲村渠平二郞の兩氏尚顴る所ありて一は百二十圓一は百八十圓にて小なる船を求め當然之に着手せしかは收獲頗る夥しく上り今日迄の收獲前■は二千數百圓後■は二千二百圓もありし■之を■る者誰か空しく手を納めて傍觀すべけんやの勢にて七月頃に至りては此處にも一隻彼處にも一隻と日々漁船を購入する者湧出するに至り八月頃に至りては既に拾隻の漁船を渡久地■に■るの盛況を呈し彼も大漁是も大漁の聲陸に充ち海に濫れ農業者にして製造又は漁民に轉業する者其の數を知らず其の入舩の頃に至りてや海岸入山を爲し製造家は夜を徹して之に從事する等其の盛况實に筆紙に尽し難き程なり晩期の牧獲にして尚ほ此の如し若し夫れ此等の漁船をして初期より從事せしなら尚ほ數培の濫額ありしならん此に面白き一話あり序に言はんとするがこれは斯である曾て伊江島に七百五拾圓にて購入せし一隻の舩があつたろうだが不熟練の結果收穫少く遂に之を賣却せさるを得さる事と成たそうだ所か本部邊にては此船はイヤ速力が惡だのイヤ魚の釣れぬ船だのと云ふて大邊見下ていたそうだが前記仲村渠某は木が魚を釣るものか魚は人が釣るものさと云つて■に其舶を四百圓にて買取りし所果して大牧穫あつたと云ふことである
偖て右■の如く本部間切に斯業の發展するに至りし主たる原因は蓋し國頭郡役所々員の敕喩最も有力てある特に喜入郡長に於ては曾て■地に到り剰へ■■に乘込み■く其の寛況をも觀察して大に漁民を勅諭■■せしことあり現に今度予■が同地に到りし時漁業者は言ふていた先に郡長並に貴殿等の敕喩に從てれけは最早吾等は大に金持になりしならんと同地漁民は皆な喜入郡長の敕喩に對し滿腔の熱誠を以て其の効を大に感していた遠洋漁業は誰も知る如く遠洋漁船とては目下第一糸滿丸の一隻あるのみにて収穫高は大したるものとは云へないが將來は有望のようである本年同船の収穫高は凡そ壹万五千圓位であると云ふ
以上は先つ縣下本年に於ける主なる漁業の狀况なるが之より本論に入らんとするが要するに本縣の漁業は年々發展しつゝあるには相違なきも特に昨今に於ては大に觀るへき事ありて今や將に發展の初期にあるかようである故に此時に當り■■の基礎を堅むるの必要を感すると同時に博く當業者否も全般の人に此等改其發達の趨勢を紹介するの必要を感しているが品評會(名稱は如何でもよし)を開設するに如くものないのである
現代仮名遣い表記
本年県下の漁業状況(四) 水産品評会開設の記事を賛す
琉球新報 明治四十年十二月十六日
玉 城 五 郞
◎■■■■ 此漁業も四、五年以前はスルゝ採漁業者のスルゝを綱■するの傍副業的に■に営まれ、嘗て製節したことがなかったが、慶良間島に於て斯業の開始されし以来各沿岸に偆播するに至たのである。今日最も主要の地は慶良間と本部間切であって、何れも十隻以上の漁船を有し、其の産額も二万円以上に上り、其他産物中鰹節が第一位にあるのは此の二個所である。其他今日斯業の根拠地としては、古賀辰四郞氏の無人島則ち尖閣列島、八重山の与那国及び鳩間島、宮古、国頭の宜名真辺であるが、喜屋武隋及び久米、粟国、渡名喜、伊平屋の諸島も追々好■場となるに違ない。扨て本年に於ける斯業者の配置と産額の概算を言ば、尖閣列島に三艘で一万八千円内外、八重山に四艘(糸満、垣花、他県人)で一万六千円、宮古二艘(鮫島幸平)で五千六百円、慶良間島十五艘で二万二千五百円、本部方面(本部船十三隻、及び大嶺、垣花、北谷各一隻、大宜味船三隻、名護二隻及濱田の船一隻)総計二十二隻で三万六千五百円、宜名真方面二隻で二千七百円、其他喜屋武等の船を入るれば全県下の産額如何しても十万円以上に上ているのである。之を三、四年■に比すれば五、六倍も増し其の進歩実に大なると言うべしであるが、之れ主として本部間切に於ける発展の然らしむる所である。依て今左に同地に於ける発展の原因及び現況を少しく記して見■う。同地は一昨々年一隻の鰹船を購入し斯業に従事せしことあるが、当時未だ経験なかりし為め失敗に帰し、船も他に売却するに至りしも、同地金城■吉、仲村渠平二郞の両氏何観る所ありて、一は百二十円、一は百八十円にて小なる船を求め、当然之に着手せしかは収獲頗る夥しく上り、今日迄の収得前■は二千四百円後■は二千二百円もありし■。之を■る者誰か空しく手を納めて傍観すべけんやの勢にて、七月頃に至りては此処にも一隻彼処にも一隻と日々漁船を購入する者湧出するに至り、八月頃に至りては既に十隻の漁船を渡久地■に■るの盛況を呈し、彼も大漁是も大漁の声陸に充ち海に乱れ、農業者にして製造又は漁民に転業する者其の数を知らず。其の入船の頃に至りてや海岸人山を為し、製造家は夜を徹して之に従事する等其の盛況実に筆紙に尽し難き程なり。晩期の収獲にして尚お此の如し。若し夫れ此等の漁船をして初期より従事せしなら尚お数培の濫額ありしならん。此に面白き一話あり。序に言わんとするがこれは斯である。曾て伊江島に七百五十円にて購入せし一隻の船があったそうだが、不熟練の結果収獲少く遂に之を売却せざるを得ざる事と成たそうだ。所が本部辺にては、此船はイヤ速力が悪だのイヤ魚の釣れぬ船だのと言うて大辺見下ていたそうだが、前記仲村渠某は木が魚を釣るものか魚は人が釣るものさと言って■に其船を四百円にて買取りし所、果して大収獲あったと言うことである。
偖て右■の如く本部間切に斯業の発展するに至りし主たる原因は、蓋し国頭郡役所々■の勅諭最も有力である。特に喜入郡長に於ては曾て■地に到り剰へ■■に乗込み■く其の実況をも観察して大に漁民を勅喩■■せしことあり。現に今度予■が同地に到りし時漁業者は言うていた。先に郡長並に貴殿等の勅喩に従てれけば最早吾等は大に金持になりしならんと。同地漁民は皆な喜入郡長の勅喩に対し満腔の熱誠を以て其の効を大に成していた遠洋漁業は誰も知る如く、遠洋漁船とては目下第一糸満丸の一隻あるのみにて収獲高は大したるものとは言えないが、将来は有望のようである。本年同船の収獲高は凡そ一万五千円位であると言う。
以上は先づ県下本年に於ける主なる漁業の状況なるが、之より本論に入らんとするが要するに、本県の漁業は年々発展しつゝあるには相違なきも、特に昨今に於ては大に観るべき事ありて今や将に発展の初期にあるかようである。故に此時に当り■■の基礎を堅むるの必要を感ずると同時に、博く当業者否な全般の人に此等改良発達の趨勢を紹介するの必要を感じているが、品評会(名称は如何でもよし)を開設するに如くものないのである。