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◎先島めぐり(七)
原文表記
◎先島めぐり(七)
梅山生
狩より歸る島民の中を通り拔けて例の飛ぶが如き駕輿は九時ごろ宮良間切白保村の事務所に卸された此處にて暫時休憩せられ村頭及び窮民総代に對面あり出でゝ大川尋常小學校の白保分敎塲に行かれ授業の實况を視察される此分敎塲は茅葺屋根の小さい建物であつて敎塲二個所に孰れも複式敎授をやつて居る白保村を發して十時頃宮良尋常小學校に行かれ同じく實地授業の景况を視察された
此日土地の醫師崎山氏其他の人々に依つて宮良川の下流魚捕りの計劃があり一行の中食も其處で済まされる運になつて居たので直ちに生徒に送られて學校を出で■所に向ふ川の下流海に注ぐ所砂清き濱邊に幕を張つて小屋を構へ網で魚を追ひ込んである一行席に就いて茶を喫して居ると七八名の漁夫が裸躰になつて水に入り網を投つて魚を捕り始め潑漱たる鮮魚を數百尾手もなく獲ることが出來た朝の猪狩とは趣が違ふ中食を済まされ麥酒の饗應になつてから當座の逸興に八重山美人の馬乗りの有樣を御覽に入れることとなり杯盤の勞を取づて居た七八名の美人馬に乗つて繰り出し來り砂白き汀を疾駈して競馬を試みた
鬢掠む海邊の潮風を身に受けて淸き渚の眞砂路を群がり集う見物人の中で悠々と手綱を操つりながら馬上ゆたかに打ち出したる美人の姿是も此土地ならでは見難き所で馬の操縦も中々熟練して有髯男子の乗り具合と亳も違ふ所がない美人の乗馬一寸珍らしく聞こえるけれど八重山地方では男女とも畑の往復には大抵馬背によることが多いので自然と乗馬の道を心得るやうになつて居ると云ふ話だ正午十二時仝所を發して歸られる川口から二三町程の所にヒルギの純林がある水の中に根ざして繁り合つて居る有樣頗る面白く見られた斯くて途中大濱村の村民及び學校生徒に送られて一時近き頃旅館に着しぬ白保村までの道程凡そ二里半ばかりであろう
六時頃例に依つて四ヶの官民及び小學校生徒在郷軍人等に送られて乗船せられ船は八重山を後にして港を出でぬ海上異なることもなく翌くれば八日の早朝漲水港に投錨した橋口島司に迎へられて上陸せられ漲翠舘にて暫時休憩し有志の請托に依つて幾多の揮毫を終へられ三時頃乗船せらる橋口如水氏詠じて曰く
雨風にあれし宮古の島陰も
もれぬやみ代の恵なりけり
大君のふかき恵のいくたびも
宮古島根にかヽるみ代かな
漲水港を出でゝ那覇に向ふ先程から穏かならざりし雲行きは益々怪しくなつて風も吹き出しぬ浪も荒い上に逆風であるから船の動搖激しくして行李が落ちる鞄が轉げ出す果ては細引きを以て躰を柱に縛り付けると云ふ騷ぎ十二時頃まで揺りに揺られ揉みに揉まれた揚句に船は途中から引つ返へして九日の朝再び漲水港に入る上陸後早速平良尋常小學校に於ける甘蔗立毛審査會の褒賞授與式に臨まれ歸途阿旦葉の製造所及び上布の織工所などに立ち寄られて營業の状况を視察せらる
十日風の方向が少しく變更して船は十二時に出帆することとなつた早朝平良尋常及び仝高等小學校の運動會に臨まる各種の遊戯体操入り替り立ち替はりて機敏に執行せられ其塲で商品を授與する正午前學校を出で降り出したる驟雨を冒して乗船せらる船は直ちに錨を揚げて港を出た風浪の荒きこと前日と選ぶ所なく船の動搖傾斜甚しかつたけれども事に前日の徹を繰り返すことなくして進行は續けたものヽ潮時の都合で那覇に寄港することが出來ぬとの事にて慶良間島廻航し十一日の朝座間味灣に投錨したので中食後座間味間切長松田氏に迎へられて上陸せらる座間味灣は座間味渡嘉敷慶留間等の諸島に擁護せられ阿護の浦の後方に當つて居る打ち見たる所いづれも禿山の粘土板岩より成り海岸から截り絶つたやうに聳えて居る水靑うして砂白し潮水巖峡に砕けて飛沫數丈の偉觀を爲し青巒相對して龍蟠虎踞し而かもまた成長清澄なる深潭を湛へて山水の風光佳とすべきであるが暴風の痕今猶ほ海邊の草木に殘つて多少宮古島の光景に類して居る
一行は水淸き白砂の汀渚に上陸せられ徒歩にて濱邊を行き畑地崎を繞りて平安丸及び糸滿丸遭難の塲所に臨まる糸滿丸は岸に乗り上げ平安丸は斜めに傾いて片舷水に沒し相對して座礁せる光景は見るも無殘な話である坂を登り山を下つて座間味間切の役塲に行かれ風害の報告を聞かる此處は役塲と學校が同じ構内にあるので早速座間味尋常高等小學校生徒の遊戯を觀られ出て糸滿水産製造塲觀覽の後間切長松田氏の宅に投じて休憩せらる座間味村は戸數二百餘戸の小さい村であるが敷地は砂地で屋敷の周圍には槇木だの黄楊だのを奇麗に植え付け村民の住宅も亦淸潔で頗る瀟洒な村落である
慶良間諸島は一体に粘土板岩の高嶺が層疊して居るばかり地面は頗る狭いので豊年の時には如何やら島民の食料を得ることも出來るけれども不作を來した時には直ちに那覇から輸入を仰がなければならぬそうだ砂糖の産額なども座間味一ヶ間切で平年二百挺内外に過ぎぬ島民は大抵漁業を兼ね天候の平穏な時は多く海に出る水産物の製造所としては糸滿水産會社の製造所以外に島民の組合が二個所あつて各四十人で組織し鰹船を二艘づヽ持つて居るが鰹節の製造價格は一組合で年二千圓内外だと云つている
船は未明に出るとの事で夕食後乗船せられた風は次第に収まりて灣内に繋留せられたる球陽丸の船室快き寝心地が少しも屋内に違わぬ翌れば十二日の黎明座間味灣と離れ風波穏やかなる海上を事なく過ぎて早朝恙なく那覇港に到着せられ茲に先島地方の視察を終へられぬ聖恩の及ぶ所枯木爲めに蘇る九重雲深きあたりかけまくも恐多き聖上陛下の御内意を奉禮して風浪汛なる先島くんだりまで望まれ席暖むるに遑あらずして詳細視察を遂げられたる侍從閣下の精励に對しては充分なる感謝を表せなければならぬ自分は茲に蕪筆を納むるに當り改めて閣下の祝福を祈る (完)
現代仮名遣い表記
◎先島めぐり(七)
梅山生
狩より帰る島民の中を通り抜けて、例の飛ぶが如き駕篭は九時ごろ宮良間切白保村の事務所に卸された。此処にて暫時休憩せられ、村頭及び窮民総代に対面あり、出でて大川尋常小学校の白保分教場に行かれ授業の実況を視察される。この分教場は茅葺屋根の小さい建物であって、教場二個所にいづれも複式教授をやって居る。白保村を発して十時頃宮良尋常小学校に行かれ、同じく実地授業の景况を視察された。
此日、土地の医師崎山氏其他の人々に依って宮良川の下流魚捕りの計画があり、一行の中食も其処で済まされる運びになって居たので、直ちに生徒に送られて学校を出で■所に向う。川の下流海に注ぐ所、砂清き浜辺に幕を張って小屋を構え、網で魚を追い込んである。一行席に就いて茶を喫して居ると、七八名の漁夫が裸体になって水に入り網を投って魚を捕り始め、溌剌たる鮮魚を数百尾手もなく獲ることが出来た、朝の猪狩とは趣が違う。中食を済まされ麦酒の饗応になってから、当座の逸興に八重山美人の馬乗りの有様を御覧に入れることとなり、杯盤の労を取って居た七八名の美人、馬に乗って繰り出し来り砂白き汀を疾駈して競馬を試みた。
鬢掠む海浜の潮風を身に受けて、清き渚の真砂路を群がり集う見物人の中で、悠々と手綱を操つりながら馬上ゆたかに打ち出したる美人の姿、是も此土地ならでは見難き所で、馬の操縦も中々熟練して有髯男子の乗り具合とすこしも違う所がない。美人の乗馬一寸珍らしく聞こえるけれど、八重山地方では男女とも畑の往復には大抵馬背によることが多いので、自然と乗馬の道を心得るようになって居ると云う話だ。正午十二時同所を発して帰られる。川口から二三町程の所にヒルギの純林がある、水の中に根ざして繁り合って居る有様すこぶる面白く見られた。斯くて途中大浜村の村民及び学校生徒に送られて一時近き頃旅館に着しぬ、白保村までの道程凡そ二里半ばかりであろう。
六時頃、例に依って四ヶの官民及び小学校生徒在郷軍人等に送られて乗船せられ、船は八重山を後にして港を出でぬ。海上異なることもなく、翌くれば八日の早朝漲水港に投錨した。橋口島司に迎へられて上陸せられ、漲翠舘にて暫時休憩し有志の請托に依って幾多の揮毫を終えられ、三時頃乗船せらる。橋口如水氏詠じて曰く
雨風にあれし宮古の島陰も
もれぬやみ代の恵なりけり
大君のふかき恵のいくたびも
宮古島根にかかるみ代かな
漲水港を出でて那覇に向ふ。先程から穏かならざりし雲行きは益々怪しくなって、風も吹き出しぬ。浪も荒い上に逆風であるから、船の動揺激しくして行李が落ちる鞄が転げ出す、果ては細引きを以て体を柱に縛り付けると云う騒ぎ。十二時頃まで揺りに揺られ揉みに揉まれた揚句に、船は途中から引っ返えして九日の朝、再び漲水港に入る。上陸後、早速平良尋常小学校に於ける甘蔗立毛審査会の褒賞授与式に臨まれ、帰途阿旦葉の製造所及び上布の織工所などに立ち寄られて、営業の状况を視察せらる。
十日、風の方向が少しく変更して船は十二時に出帆することとなった。早朝、平良尋常及び同高等小学校の運動会に臨まる。各種の遊戯体操入り替り立ち替わりて機敏に執行せられ、其場で商品を授与する。正午前学校を出で、降り出したる驟雨を冒して乗船せらる。船は直ちに錨を揚げて港を出た。風浪の荒きこと前日と選ぶ所なく、船の動揺傾斜甚しかったけれども、事に前日の徹を繰り返すことなくして進行は続けたものの、潮時の都合で那覇に寄港することが出来ぬとの事にて慶良間島廻航し、十一日の朝座間味湾に投錨したので、中食後座間味間切長松田氏に迎へられて上陸せらる。座間味湾は座間味渡嘉敷慶留間等の諸島に擁護せられ、阿護の浦の後方に当って居る。打ち見たる所いづれも禿山の粘土板岩より成り、海岸からきり絶ったようにそびえて居る。水青うして砂白し潮水巌峡に砕けて飛沫数丈の偉観を為し青巒相対して竜蟠虎踞し、しかもまた成長清澄なる深潭を湛えて山水の風光佳とすべきであるが、暴風の痕今なお海辺の草木に残って多少宮古島の光景に類して居る。
一行は水清き白砂の汀渚に上陸せられ、徒歩にて浜辺を行き畑地崎をめぐりて、平安丸及び糸満丸遭難の場所に臨まる。糸満丸は岸に乗り上げ平安丸は斜めに傾いて片船水に没し、相対して座礁せる光景は見るも無残な話である。坂を登り山を下って座間味間切の役場に行かれ、風害の報告を聞かる。此処は役場と学校が同じ構内にあるので、早速、座間味尋常高等小学校生徒の遊戯を観られ、出て糸満水産製造場観覧の後、間切長松田氏の宅に投じて休憩せらる。座間味村は戸数二百余戸の小さい村であるが、敷地は砂地で、屋敷の周囲には槙木だの黄楊だのを奇麗に植え付け、村民の住宅もまた清潔ですこぶる瀟洒な村落である。
慶良間諸島は一体に粘土板岩の高嶺が層畳して居るばかり、地面はすこぶる狭いので、豊年の時には如何やら島民の食料を得ることも出来るけれども、不作を来した時には直ちに那覇から輸入を仰がなければならぬそうだ。砂糖の産額なども、座間味一ヶ間切で平年二百挺内外に過ぎぬ。島民は大抵漁業を兼ね、天候の平穏な時は多く海に出る。水産物の製造所としては、糸満水産会社の製造所以外に島民の組合が二個所あって各四十人で組織し、鰹船を二艘づつ持って居るが、鰹節の製造価格は一組合で年二千円内外だと云っている。
船は未明に出るとの事で、夕食後乗船せられた。風は次第に収まりて湾内に繋留せられたる球陽丸の船室快き、寝心地が少しも屋内に違わぬ。翌れば十二日の黎明、座間味湾と離れ風波穏やかなる海上を事なく過ぎて、早朝つつがなく那覇港に到着せられ、ここに先島地方の視察を終えられぬ。聖恩の及ぶ所枯木為めに蘇る九重雲深きあたり、かけまくも恐多き聖上陛下の御内意を奉礼して、風浪汛なる先島くんだりまで望まれ、席暖むるに遑あらずして詳細視察を遂げられたる侍従閣下の精励に対しては、充分なる感謝を表せなければならぬ。自分は茲に蕪筆を納むるに当り、改めて閣下の祝福を祈る。 (完)