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◎先島めぐり(一)

掲載年月日:1907/2/14(木) 明治40年
メディア:琉球新報社 2面 種別:記事

原文表記

◎先島めぐり(一)
梅山生
花の都のそれならぬ宮古が島は南海渺茫の波荒き所ろの五百重湧きちる潮路の浪を冒して先島あたり吹き荒みたる風害視察の途に就かるヽ北條侍從の一行に投じて球陽丸に便乗したのが去三日の正午過ぎである
艀舟の間から如何やら頭痛の氣味がしたのであるから船に乘り移ると共に既に船暈を感じた曾て舩醉の味を覺へぬ自分斯う弱い筈はないがと自惚れてみた所で始まらぬ仕方がないから眞つ先きに横になつた切り一向枕を上ぐることも出來ぬ暫くして一聲の滊笛と共に船は徐々として進行を初める港を出て進路を南方に轉じ馬齒山列島の南端にあたり過ぐる頃鯨が見へたと云つて騒ぐので自分も起きて室内の圓い硝子窓から窺き出したけれども帆かけて走る海士の釣舟がつれなげに波間■漂ふばかりで影も形も見へぬ落膽して又横になるとそら潮を吹き上げたと珍しそうに騒ぎ立つて居たけれどもモウ起き上る勇氣も出ない聞けば此のあたり折々鯨魚の遊弋することがあるそうな
日一日夜ひと夜船室内の籠城を極め込んで靑い息を吐くばかり機關の音船輪の響は絶え間なく耳朶を拍つて結びかねたる夜船の夢途絶えがちであるが翌くれば日本晴の好天氣宮古島が手近かに見へるとの事に起きて甲板に出づれば珊瑚礁上飛沫雪の如く大平山の列島は低く波濤の間に横つて其北端の大神島が獨り突兀として聳へて居る船は島に沿ふて進み狩俣村を左に望んで行けば沿岸一帯の草木蕭索として黄色を帯び滿目の光景が如何にも落寞である予等は侍従閣下と共に望遠鏡を以て此荒涼たる風景を眺め覺えず嘆聲を發して海南に於ける風害の慘状が今に斯くの如き形跡の存するあるを悲しんだのである正午近き頃船は漲水港に投錨しぬ一行は橋口島司に迎へられて艀舟に移り島廳吏員や民間の有志者及び小學校生徒の團体に迎へられて上陸し波止塲に臨める御倉許と云ふ所に投宿した斯くて午後一時頃島廳に臨まれ島司から風害の状况を報告する夫より平良高等小學校及び仝尋常小學校に臨まれて授業の實况を視察され終つて島司と坂木署長の案内にて村内を■り近年新に■つた井戸を三四ケ所と舊來の井戸を觀覽の後市内を一巡して歸られた
抑も宮古島は東洋低氣壓の作源地に接近して居る許りか土地平坦にして全島に林岳の障壁なく澹々たる風濤の上に全くの吹き晒しとなつて居るのであるから暴風の爲めに蒙る作物の打撃は頗る激烈なものだとの事であるが殊に昨年の如きは十月の下旬に香港で起つた颱風の餘勢を受けて東南に向つて吹き荒された間もあらせず續いて十一月上旬には反對に西北の方向に吹き返されたのであるから其作物の被害の大なるは云ふ迄もない話である所が不幸な事には此の扁平な列島は端から端へと潮水を被つて了つた爲に被害の程度は尋常一樣でなく風後の光景は全然火事塲の燒け跡を見るやうで草木悉く黄落し野も山も荒涼たる枯木立になつて惨状目も當てられぬ流石福樹ばかりは防風樹とも云はれた丈あつて漸く之に抵抗することも出來たけれども其外には藥にしたくも綠葉を見ることが出來ず松の翠りの常磐の色さへも名のみばかりの有様であつたとか
尤も今日では風後百餘日も經過し居る上に廻歸線に近い半熱帯の土地で被害の恢復力汪熾の所であるから大抵の植物が現状に復し掛つては居るものヽ松とは云はず蘇鉄と云はずあらゆる喬灌木が皆多少黄葉の跡を留めて居る殊に海岸一帯の丘陵に蜓蜿として蟠屈せる阿旦樹の如きは今猶ほ見る影もなく枯れ果てヽ居るのが多い
既に是等頑強な樹木でさへ斯くの如き状態なりとすれば農作物の被害は想像するに難からぬ島民の一部は頗る窮状に陥つて粉米の少量に那覇から輸入された芋及び芋粕などを交ぜ夫れに蘇鉄と芋の葉などを入れて食■辛き生命は繋ぎ留めて居るものヽ其芋粕の相塲も續々騰貴して一升五錢の上に騰る一方砂糖の産額は減ずると云ふ有樣で農家の生活は誠に憐れな状態だと云つて居る暴風後生計困難の爲めに平良尋常小學校に於ける在學兒童の退學する者三十六名ありし由なるが生徒の總數三百六十六名に對照する時は恰も一割に相當して居る
小洞松井氏一絶を寄せて曰ふ
 長途奉敇拯斯民  南島凧和草木新
 皇■金賚千五百  感窮泣■受恩人

現代仮名遣い表記

◎先島めぐり(一)
梅山生
花の都のそれならぬ宮古が島は、南海渺茫の波荒き所ろの五百重湧きちる潮路の浪を冒して、先島あたり吹き荒みたる風害視察の途に就かるる北条侍従の一行に投じて、球陽丸に便乗したのが去三日の正午過ぎである。
艀舟の間からどうやら頭痛の気味がしたのであるから、船に乗り移ると共に既に船暈を感じた。かつて船酔いの味を覚えぬ自分、こう弱い筈はないがと自惚れてみた所で始まらぬ。仕方がないから真っ先きに横になった切り一向に枕を上げることも出来ぬ。暫くして、一声の汽笛と共に船は徐々として進行を初める。港を出て進路を南方に転じ馬歯山列島の南端にあたり過ぎる頃、鯨が見えたと云って騒ぐので、自分も起きて室内の円い硝子窓から窺き出したけれども、帆かけて走る海士の釣舟がつれなげに波間■漂ふばかりで影も形も見へぬ。落胆して又横になると、そら潮を吹き上げたと、珍しそうに騒ぎ立って居たけれどもモウ起き上る勇気も出ない。聞けば此のあたり折々鯨魚の遊弋することがあるそうな。
日一日、夜ひと夜、船室内の籠城を極め込んで青い息を吐くばかり。機関の音船輪の響は絶え間なく耳朶を拍って、結びかねたる夜船の夢途絶えがちであるが、翌くれば日本晴の好天気。宮古島が手近かに見えるとの事に起きて甲板に出れば、珊瑚礁上飛沫雪の如く大平山の列島は低く波濤の間に横って、其北端の大神島が独り突兀としてそびえて居る。船は島に沿ふて進み、狩俣村を左に望んで行けば沿岸一帯の草木蕭索として黄色を帯び、満目の光景が如何にも落寞である。予等は、侍従閣下と共に望遠鏡を以て此荒涼たる風景を眺め覚えず嘆声を発して、海南に於ける風害の惨状が今に斯くの如き形跡の存するあるを悲しんだのである。正午近き頃、船は漲水港に投錨しぬ。一行は橋口島司に迎へられて艀舟に移り、島庁吏員や民間の有志者及び小学校生徒の団体に迎へられて上陸し、波止場に臨める御倉許と云う所に投宿した。斯くて午後一時頃島庁に臨まれ、島司から風害の状况を報告する。夫より平良高等小学校及び同尋常小学校に臨まれて、授業の実況を視察され、終って島司と坂木署長の案内にて村内をめぐり、近年新にほった井戸を三四ヶ所と旧来の井戸を観覧の後、市内を一巡して帰られた。
そもそも宮古島は東洋低気圧の作源地に接近して居る許りか、土地平坦にして全島に林岳の障壁なく、澹々たる風濤の上に全くの吹き晒しとなって居るのであるから、暴風の為に蒙る作物の打撃は頗る激烈なものだとの事であるが、殊に昨年の如きは、十月の下旬に香港で起った台風の余勢を受けて東南に向って吹き荒された。間もあらせず続いて十一月上旬には、反対に西北の方向に吹き返されたのであるから、其作物の被害の大なるは云う迄もない話である。所が不幸な事には、此の扁平な列島は端から端へと潮水を被ってしまった為に、被害の程度は尋常一様でなく、風後の光景は全然火事場の焼け跡を見るようで、草木悉く黄落し野も山も荒涼たる枯木立になって惨状目も当てられぬ。流石福樹ばかりは防風樹とも云われた丈あって、漸く之に抵抗することも出来たけれども、其外には薬にしたくも緑葉を見ることが出来ず、松の翠りの常磐の色さえも名のみばかりの有様であったとか。
尤も今日では、風後百余日も経過し居る上に、回帰線に近い半熱帯の土地で被害の回復力汪熾の所であるから、大抵の植物が現状に復し掛っては居るものの、松とは云わず蘇鉄と云わずあらゆる喬潅木が、皆多少黄葉の跡を留めて居る。殊に、海岸一帯の丘陵に蜓蜿として蟠屈せる阿旦樹の如きは、今猶ほ見る影もなく枯れ果てて居るのが多い。
既に是等頑強な樹木でさえ、斯くの如き状態なりとすれば農作物の被害は想像するに難からぬ。島民の一部は頗る窮状に陥って、粉米の少量に那覇から輸入された芋及び芋粕などを交ぜ夫れに蘇鉄と芋の葉などを入れて食■、辛き生命は繋ぎ留めて居るものの、其芋粕の相場も続々騰貴して一升五銭の上に騰る。一方、砂糖の産額は減ずると云う有様で、農家の生活は誠に憐れな状態だと云って居る。暴風後生計困難の為めに、平良尋常小学校に於ける在学児童の退学する者三十六名ありし由なるが、生徒の総数三百六十六名に対照する時はあたかも一割に相当して居る。
小洞松井氏一絶を寄せて曰う
 長途奉敇拯斯民  南島凧和草木新
 皇■金賚千五百  感窮泣■受恩人