キーワード検索
◎大東島(續)
原文表記
◎大東島(續)
探撿隊の一人某
尙ほ左に出雲丸船長の報告を摘記して參考とす大東島回航諸誌の本島を記するや其位置を異にし其景狀を別にし會て近海々底の淺深を詳載するものなく廣く海圖を京濱の地に求めたるも遂に依て以て航海の用に適すべきものを得る能はさりし故に弊船の始め本島に航する詳かに之を測量し相當の海圖を製し■日本島に航する者の便に供するの素志なりしが滯島日淺く殊に日間測量の時期大陽ハ適々雲間に沒し又夜分ハ常に地平線の明瞭ならざるを以て遂に其素志を果す能はさりしは誠に憾遺の至りに堪さるなり
弊船は始め南島の西岸に航着し其巖石屹立更に上陸の地なきを以て島岸に添ふて回航し遂に其北岸に端■を寄することを得たり南北二島共に皆巖石屹立し會て大小■船を寄す可きの地なし弊船の本島に航する晴天にして海面も平穩なりし然れとも尙ほ端艇を以て上陸の地を得る甚た容易なるに非す弊船は南北の二島共に島岸に添ふて■「ケーブル」を距て回航せしも會て暗礁■の危險ありしを見ず英國出■の日本支那海路誌にハ南島の南岸にハ島脈の延長し危險なる由を記するも弊船ハ二回同所に航したるに更に危險物あるを認めす恐くハ誤謬に出たるならん島岸回航之際には常■屢々航進を止め重測鉛を以て淺深を試みたるに百三十尋更に海底に達せさりし
海水は極めて透明にして三十尋の水下に明かに測鉛■認るを得故■汽船の回航するもの機關徵力を以て徐々航進せハ詳細の淺深を記する海圖なきも亦危險■陷るの患なし要するに本島は其南北共に恐くハ古代火山の噴火に罹り洋中に突起せるもの■して全島悉く岩石■成り島岸更■沙泥ある■■す端艇■以て島岸を回漕せしに海底は皆岩石にして凸凹■なら■海面平穩の日に於てハ水色を以て海底の淺深を判つこと得
南北二島の海峽には海水極めて深さを以て果して島脈■■連絡するや否を證する能ハす右海峽は自在に橫航するを得
島地の潮流ハ之を測量する適當の地を得さりしも通常大潮に於て千滿■差■尺に内外するもの■■■■潮■■■常に波浪の島岸を激衝せるを以て精密に之を測るの機會を得さりし唯に潮流は其干滿に依て島岸に添ふて左右するを見る
本島と琉球島間の潮琉は固と支那海「モンソン」の景狀を以て■速なきを得さるも弊船往復の實驗する所に據れは其速力甚た速かならす東流一時間半海里に内外するものゝ如し
南北二島共に海面を拔■甚た高からす大凡五十尺にして能く其内地の地勢を詳かにせさるも高低一ならす遠く之を望めは南島は平低地にして北島も其北部に一小山脈あるを認るのみ島地には暖地普通の樹木茂生するあるも亦た有用材梁あるを認めず
弊船ハ英國出版の海圖を用ひしか本島は千八百五十四年亞米利加出版の海圖より抄寫せしものにして恐くは「ペルリ」回島のとき測量せし者ならん其本島の位置を記する甚■き■謬なきが如し弊船は南島の北西突出端を天体實測に依て東經百三十一度十三分二十秒に在るをしりたるか正に右海圖と一分强の差あるのみ
別紙圖面(圖面略)ハ弊船の本島を回航の際匇卒の間に成りたるを以て僅かに二島の形狀を記するのみ固より依て以て其大小廣狹を詳かにするに足らす其經緯度も天体實測の機會を得さるしを以て暫く弊船所用の海圖に從ふ其南島と北島とは實際南々西より北々東に位するか如し
弊船所用の海圖には南島の南西端に一小灣あるか如きも之を實地に徵するに決して然らす其景勢正に別紙圖の如し(圖畧)前記の如く本島近海は海底悉く岩石にして且つ甚深く其更■投錨■可きの地なきを以て弊船ハ常に其近海に躇流し端艇を島地に往復したり一旦風波の激するに當てハ固とより之を避くへきの■なく唯々外洋に躊躇するの一策あるのみ云々
其后更に海軍省に乞ふて探檢を遂けたり其探檢として派遣せられたるハ明治廿五年八月軍艦ハ海門號にして艦長ハ紫山■佐なり其當時の報告に依れは是亦た未た島地の狀况を詳かにすることを得す一局部の勸察は過きさるか如し其前年即ち明治二十四年九月米國帆舩キッセップ號大東島に漂着し救助の爲め開運會社滊船大有丸を派遣せり其時■属戶田敬義及び警部武林哲馬之に乗組那覇港を出帆したるハ明治二十四年十月二日にして其難舩乗組員を救助して歸廳したるは仝月四月なり左に■■末を記すべし
キツセツプ號は米國カラルニヤ州サンフランシスコ港カラホニヤ街二百四番館ポープ及トルホット社の所有にして七百五十五噸餘の帆舩なり明治廿四年七月四日木材を搭載してカラホニヤ州タウンセント港出帆淸國上海へ向け航海中暴風の爲め進路を失ひ漂流中終に同年九月六日午前三時南大東島の北岸に於て破船し二三の船具を除くの■船體及積荷とも悉皆流失せり乗組員は一同辛ふして同島へ上陸救助船の至るを待つこと拾七日間其内天候も順に復■海波平穩に歸したるを以て船長は乗組員十名の内其七名を同島に殘し置き其他■轉手一名水夫二名都合三名を端艇に乗せ沖繩本島に向け同氏島を出發したるハ同年九月廿三日夫れより七日間を經で幸に無事運天港に着することを得たり然るに此處い上陸して救助を乞ふても到底其希望を■すること克ハさるを察し更に西海岸を傳ふて那覇港迄來航■救助を乞ふて初めて難爬船のあることを承知したるものゝ如し船長は米國人にして「ヘヌリーチベツト」と云ふ當年四十八其他運轉手二名共米國人水夫は何れも諾爾成人なり一同無人島に上陸して救助船の至るを待つ十七日間の苦心想ふべし
圖面の上よりすれば鹿兒島縣大島諸島最も近きか如し
然るに沖繩本島に向て來航したるは如何なる譯なる乎姑く疑ひを存■(未完)
現代仮名遣い表記
◎大東島(続)
探険隊の一人某
尚を左に出雲丸船長の報告を摘記して参考とす大東島回航諸誌の本島を記するや其位置を異にし其景状を別にし会て、近海々底の浅深を詳載するものなく、広く海図を京浜の地に求めたるも遂に依て、以て航海の用に適すべきものを得る能はさりし。故に弊船の始め本島に航する詳かに之を測量し相当の海図を製し、■日本島に航する者の便に供するの素志なりしが、滞島日浅く殊に日間測量の時期太陽は適々雲間に没し、又夜分は常に地平線の明瞭ならざるを以て遂に其素志を果す能はさりしは、誠に憾遺の至りに堪さるなり。
弊船は始め南島の西岸に航着し、其巌石屹立更に上陸の地なきを以て島岸に添うて回航し、遂に其北岸に端■を寄することを得たり。南北二島共に皆巌石屹立し会て大小■船を寄す可きの地なし、弊船の本島に航する晴天にして海面も平穏なりし。然れとも尚お端艇を以て、上陸の地を得る甚た容易なるに非す。弊船は南北の二島共に島岸に添うて■「ケーブル」を距て回航せしも会て、暗礁■の危険ありしを見ず英国出版の日本支那海路誌には、南島の南岸には島脈の延長し危険なる由を記するも、弊船は二回同所に航したるに更に危険物あるを認めず、恐くは誤謬に出たるならん。島岸回航之際には常■屢々航進を止め、重測鉛を以て浅深を試みたるに百三十尋更に海底に達せさりし。
海水は極めて透明にして三十尋の水下に明かに測鉛■認るを得、故■汽船の回航するもの機関微力を以て、徐々航進せは詳細の浅深を記する。海図なきも亦危険■陥るの患なし、要するに本島は其南北共に恐くは古代火山の噴火に罹り、洋中に突起せるもの■して全島悉く岩石■成り。島岸更■沙泥ある■■す端艇■以て島岸を回漕せしに、海底は皆岩石にして凸凹■なら■。海面平穏の日に於ては水色を以て海底の浅深を判つこと得。
南北二島の海峡には海水極めて深さを以て、果して島脈■■連絡するや否を証する。能はす右海峡は自在に横航するを得。
島地の潮流は之を測量する適当の地を得さりしも、通常大潮に於て千満■差■尺に内外するもの、■■■■潮■■■常に波浪の島岸を激衝せるを以て、笙精密に之を測るの機会を得さりし唯に、潮流は其干満に依て島岸に添うて左右するを見る。
本島と琉球島間の潮琉は固と支那海「モンソン」の状を以て、■速なきを得さるも弊船往復の実験する所に拠れは、其速力甚た速かならす東流一時間半海里に内外するものの如し。
南北二島共に海面を抜■甚た高からす、大凡五十尺にして能く其内地の地勢を詳かにせさるも、高低一ならす遠く之を望めば南島は平低地にして、北島も其北部に一小山脈あるを認るのみ。島地には暖地普通の樹木茂生するあるも亦た、有用材梁あるを認めず。
弊船は英国出版の海図を用いしか、本島は千八百五十四年亜米利加出版の海図より抄写せしものにして、恐くは「ペルリ」回島のとき測量せし者ならん。其本島の位置を記する甚■き■謬なきが如し。弊船は南島の北西突出端を天体実測に依て、東経百三十一度十三分二十秒に在るをしりたるか、正に右海図と一分強の差あるのみ。
別紙図面(図面略)は弊船の本島を回航の際、匇卒の間に成りたるを以て僅かに二島の形状を記するのみ。固より依て以て其大小広狭を詳かにするに足らず、其経緯度も天体実測の機会を得さるしを以て、暫く弊船所用の海図に従う。其南島と北島とは実際南々西より北々東に位するか如し。
弊船所用の海図には南島の南西端に一小湾あるか如きも、之を実地に徴するに決して然らす。其景勢正に別紙図の如し(図略)前記の如く、本島近海は海底悉く岩石にして且つ、甚深く其更■投錨■可きの地なきを以て、弊船は常に其近海に躇流し、端艇を島地に往復したり、一旦風波の激するに当ては固とより、之を避くへきの■なく唯々外洋に躊躇するの一策あるのみ云々。
其后更に海軍省に乞うて探険を遂けたり、其探険として派遣せられたるは明治二十五年八月、軍艦は海門号にして艦長は紫山■佐なり其当時の報告に依れは、是亦た未た島地の状況を詳かにすることを得す。一局部の観察は過ぎさるか如し、其前年即ち明治二十四年九月米国帆船キッセップ強大東島に漂着し、救助の為め開運会社汽船大有丸を派遣せり。其時■属戸田敬義及び警部武林哲馬之に乗組、那覇港を出帆したるは明治二十四年十月二日にして、其難船乗組員を救助して帰庁したるは、同月四月なり左に■■末を記すべし。
キツセツプ号は米国カラホニヤ州サンフランシスコ港カラホニヤ街二百四番館、ポープ及トルホット社の所有にして、七百五十五噸余の帆船なり。明治二十四年七月四日木材を搭載してカラホニヤ州タウンセント港出帆、清国上海へ向け航海中暴風の為め進路を失い、漂流中終に同年九月六日午前三時、南大東島の北岸に於て破船し、二三の船具を除くの■船体及積荷とも悉皆流失せり。乗組員は一同辛ふして同島へ上陸救助船の至るを待つこと十七日間、其内天候も順に復■海波平穏に帰したるを以て、船長は乗組員十名の内其七名を同島に残し置き、其他■転手一名水夫二名都合三名を端艇に乗せ、沖縄本島に向け同氏島を出発したるは同年九月二十三日、夫れより七日間を経で幸に無事運天港に着することを得たり。然るに此処い上陸して救助を乞うても到底其希望を■すること、克はさるを察し更に西海岸を伝うて那覇港迄来航、■救助を乞ふて初めて難爬船のあることを承知したるものの如し。船長は米国人にして「ヘヌリーチベツト」と云う。当年四十八其他運転手二名共米国人、水夫は何れも諾爾成人なり。一同無人島に上陸して救助船の至るを待つ、十七日間の苦心想うべし。
図面の上よりすれば鹿児島県大島諸島、最も近きか如し。
然るに沖縄本島に向て来航したるは、如何なる訳なる乎姑く疑いを存■(未完)