キーワード検索
◎大東島
原文表記
◎大東島
大東島探撿隊の一人某
予は探撿隊に属し大東島に出張したるものゝ一人なり然るは彌々實地蹈査せんとする塲合に至り海岸は嶮惡にして容易に上陸することを得す辛ふして陸に上り更に内部に進入せんとすれは按外にも阿旦生茂り容易に之を■して侵入することを得す僅かに彼所是所より覗き見て内部の模樣を想像したる位に■きす充分の探撿を遂くること克ハさりしは予の深く遺憾とする所なりこれを充分に探撿せんとすれ■少なくも一島に二三日間の猶豫を興へされは六ヶ敷又た相當の機械人夫等の用意なくんハ阿旦の密生せる部分を排して内部に進入することを得す此以前特■探撿として出張したる縣属石澤兵吾等の■行も尙ほ其后海門號の一行も未た内部の狀况を詳かにすること克はすして歸り來れ■今回澤丸を派遣せられたる目的より云へハ今度の探撿隊が充分の功を奏せすして歸港したるは無理ならぬ次第と云ふべし尤も南大東島は玉置農塲の人■に案内せられて内部の狀况等も幾分探り得たるのみならす玉那覇徹氏が二三日間滯在の上充分の調査を遂げ農塲の現况等は最も綿密なる報告ありたるを以て今斯くに重て報告するの要なしと雖も予が望遠鏡的の觀察記と從來の沿革等を摘記して讀者の淸覽に供す大東島ハ沖繩本島を距る百十二海里東に在り明治二十五年軍艦海門號の測定によれば南大東島ハ東經百卅一度十四分四十二秒北緯二十五度五十五分に位し北大東島は其南大東島より北緯二十七度三十分東にありて其距離凡そ六海里餘を隔つ西暦一八六三年英國海軍省水路部出版の海圖によれは南大島を「ソースボロヂー」北大東島を「ノースボロヂー」とせり然るに最初之を發見したる人物年代等分明ならされとも「ボロヂー」列島略記によれば今を距る八十餘年前卽ち一千八百廿年大尉「ボナフイディン」氏の發見せられたるものにして仝氏ハ其位置を北緯二十五度五十五分東經百三十一度十五分とせり軍艦海門號の測定と僅かに分秒の差あるのみにて殆■符合■す■
△南大東島 地勢は稍々南北に長く而して東西の両端開き即ち分銅形をなせり固より高低も少く沖合より望めば龜甲の如く其最も高しとする處海面を拔く凡う百四五十尺もあるべし整理局の測定によれば周回一萬一千五百間即ち五里拾壹町餘最初の豫想よりハ聊か縮小せり海岸は何れも珊瑚礁より成れり断岸絕壁にして港灣なく且つ波浪荒く容易に端舟を寄すへからず尤も波浪の洗ふ處ハ一帶の礁脉を繞らし此上は歩行するに便なり稀には岸壁を攀ち豋り迂回する處ありと雖も大抵其礁脉■上より一周することを得べし然るに海岸の岩壁は到る處暗灰色を帶び稜々繞立芒刺銳尖にして其質甚た堅く之を蹈めば鏘々音をなす其嶮惡亦云ふべからす辛ふそして之を攀ち登れは更に阿旦樹の密生せる一帶あり此部分を通過すること頗る困難なり之を排して内部に入れば蒲葵樹林立滿山蒲葵ならさるなし土地又平坦にして地味肥へ塲所に依てハ雲を凌くの蒲蓁樹あれば數十間に枝を延はせる榕樹にありて實に偉觀と稱すべし島内の地形ハ四面隆起して漸次中央に低下し高所より全體を見渡すときは即ち平鉢狀をなす其最も低き部分には天水潴溜し甲所乙所に大小幾個の池をなす地質は多くは赤粘土にして其表土は植物營養分を含有する腐植質の肥沃土なり甘蔗が無肥料にて克く成長し殆んどビール瓶大の大さに達したるものあるを見ても甘蔗類の適地たることを知るに足るへし土地の有樣より云へば甘蔗の外更に山藍を栽培せは如何計り多大の収益を得るや計る可らざるものあらんとす尙ほ進んて内部の周圍に樟木を栽植せハ是亦た數十年の后には更に莫大なる收益を擧くることを得ん玉置氏も既に試驗塲内に山藍の移植を試み尙ほ樟苗等も仕立て追々移植せんとせり現在の樹木は蒲葵、榕樹ウスグ、ゲキツ等の外種々の雜木蒲葵の間に点々散在し稀には良材となすへきのありと雖も多くハ悪曲短材のみ其他藤類も多々之を見受けたりし盖し八重山及國頭邊の產を同一なるべし玉置製糖塲に於ては砂糖荷造りに之を用ひ其籘を以て「アンビラ」包を括りたる處一見輸入糖の俵袋を見るか如き心持せり
沖繩本島到る處松椎木類のあらさる處なし然るに該島に於ては更に之を見受けさりしは聊か不思議に思へり近頃米利堅松を移植し既に四五尺以上に伸びたるもの間々之あり只今の有樣なれば必す克く成長すべし獸類は野羊の外蝙蝠あるのみ去る十八年探撿の爲め属官警部巡査數名派遣したるときハ犬の牝牡二頭放牧せしに過きす目下蕃殖せる野羊は去る明治廿四年十月米國商船難破に羅り救助の爲め縣聽より属官警部を派遣したる當時放牧したる野羊なるへし在島人之の云ふ處によれハ最初は手擒することを得たるも近頃に至ては銃殺するにあらされは容易に捕獲することを得すと云ふ尙ほ之と同時に豚四頭鷄五羽兎三羽を放牧し其他松苗コウカリ樹、ゴム樹、ユウナ、甘藷、麥類數種移植したる由なれとも是等は少しも其形跡を見當らさりし多分自滅したるものなるべし野禽ハ鳥、鶯、目白、鵯、黑鳩(方言カラス鳩)類にして海岸に於てハ水禽二三種見受けたり害蟲類も只蜈蜙類に限れり毒蛇なし其外には蚊及ブト類澤山ありて夕方に至れハ在島人ハ夫れが爲め大に惱され酒の香ひすれハ益々蝟集し殆んとそれが防禦に因却すと在島人之を名ケて酒蟲と云ふ海岸の阿旦密生せる部分に方言「マク蟹」多く棲息し其大なるものは一貫目以上に到るものありと云ふ其彩色班点等の有樣を見れハ八重山群島の產と同一なるへし之を食したる人の談によれは其肉は普通の蟹と同一にして味も亦た佳在島人は常■之を膳部に供し美味として賞玩すと云ふ
北大東島は千鳥に類する一種の水禽非常に多し之に近つけは無量數万の鳥群飛ひ立て天を被ふ其光景實に夕日の殘照と相映して又一大奇觀たり此鳥は了度今頃が產卵期にして單に岩上平かなる處に卵を產み既に之を孵化せんとする時季にて試みに毀ハしてみれは最早數日を經過したるものゝみ何れも半は鳥に化せり卵ハ甚た大ならすと雖とも一樣■白く而して褐色の班点ありて美麗なり此外信天翁と略相似たる水禽は沖大東島に於て多く之を見受けたり
魚族ハ殊に鱶類多しとす甲板の上より釣を垂れて大鱶數尾其他方言赤メバル類も澤山之を捕獲せり海岸汀邊に至て見れは岩隙ハ深く域は淺くして碧水を滿し其小潭池をなしたる部分に種々の魚族寄生し間には海鰻類も見受けたり就中黑メバルの如きは最も多しとす其大なるものは三四斤以上に至るものあり我が一行が手取したるものも亦た少なからさりし其他海參類も往々之を見受けたるが何れも方言ゾーリゲタの■にして下等の種類に属す汀邊岸壁の間に大小種々の蟹非常に多く寄生し之を遂へは其混雜する狀又た一奇觀たり
大東島ハ黑潮の流域に介在するを以て鰹魚類の回遊少なからさるへし海底にハ貝類も多かるへく海參も亦た多かるへく鱶類も最も多しと云へは漁業の見込みなきにあらすと雖も島の周圍断崖絕壁にして且つ波浪荒らく舟を寄すへき塲所なきを如何せん今回探撿の爲め出張したる糸滿村の漁業者も之れに閉口し断念して歸り來れり漁業の狀况以て知るへし
現代仮名遣い表記
◎大東島
大東島探検隊の一人某
予は探検隊に属し、大東島に出張したるものの一人なり。然るは弥々実地蹈査せんとする場合に至り、海岸は険悪にして容易に上陸することを得ず、辛ふして陸に上り更に内部に進入せんとすれば、案外にも阿旦生茂り、容易に之を■して侵入することを得す。僅かに彼所是所より覗き見て、内部の模様を想像したる位に■きす。充分の探検を遂くること克はさりしは、予の深く遺憾とする所なり。これを充分に探検せんとすれ■、少なくも一島に二、三日間の猶予を与へされは六ヶ敷又た、相当の機械人夫等の用意なくんは、阿旦の密生せる部分を排して内部に進入することを得す。此以前特■探検として出張したる県属石沢兵吾等の■行も、尚を其後海門号の一行も未だ内部の状况を、詳かにすること克はすして帰り来れ■。今回沢丸を派遣せられたる目的より云へば、今度の探検隊が充分の功を奏せすして、帰港したるは無理ならぬ次第と云ふべし。尤も南大東島は玉置農場の人■に案内せられて、内部の状况等も幾分探り得たるのみならず、玉那覇徹氏が二三日間滞在の上、充分の調査を遂げ農場の現况等は最も綿密なる報告ありたるを以て、今斯くに重て報告するの要なしと雖も予が望遠鏡的の観察記と、従来の沿革等を摘記して読者の清覧に供す。
大東島は沖縄本島を距る百十二海里東に在り明治二十五年軍艦海門号の測定によれば南大東島は東経百三十一度十四分四十二秒、北緯二十五度五十五分に位し、北大東島は其南大東島より北緯二十七度三十分東にありて、其距離凡そ六海里余を隔つ。西暦一八六三年英国海軍省水路部出版の海図によれば、南大島を「ソースボロヂー」北大東島を「ノースボロヂー」とせり。然るに最初之を発見したる人物、年代等分明ならされとも「ボロヂー」列島略記によれば、今を距る八十与年前、即ち一千八百二十年大尉「ボナフイディン」氏の発見せられたるものにして、同氏は其位置を北緯二十五度五十五分、東経百三十一度十五分とせり、軍艦海門号の測定と僅かに分秒の差あるのみにて殆■符合■す■
△南大東島 地勢は稍々南北に長く、而して東西の両端開き即ち分銅形をなせり。固より高低も少く沖合より望めば。亀甲の如く其最も高しとする処、海面を抜く凡う百四五十尺もあるべし。整理局の測定によれば周回一万一千五百間、即ち五里十一町余。最初の予想よりはいささか縮小せり。海岸は何れも珊瑚礁より成れり、断岸絶壁にして港湾なく、且つ波浪荒く容易に端舟を寄すへからず。もっとも波浪の洗ふ処は一帯の礁脉を繞らし此上は歩行するに便なり稀には岸壁を攀ち登り迂回する処ありと雖も大抵其礁脉■上より一周することを得べし然るに海岸の岩壁は到る処暗灰色を帯び稜々繞立芒刺鋭尖にして其質甚た堅く之を蹈めば鏘々音をなす其険悪また云うべからす。辛ふそして之を攀ち登れは更に阿旦樹の密生せる一帯あり此部分を通過すること頗る困難なり。之を排して内部に入れば蒲葵樹林立、満山蒲葵ならさるなし土地、又平坦にして地味肥へ場所に依ては、雲を凌くの蒲蓁樹あれば、数十間に枝を延はせる榕樹にありて、実に偉観と称すべし島内の地形は四面隆起して、漸次中央に低下し高所より全体を見渡すときは、即ち平鉢状をなす。其最も低き部分には天水潴溜し、甲所乙所に大小幾個の池をなす地質は、多くは赤粘土にして其表土は植物営養分を含有する腐植質の肥沃土なり。甘蔗が無肥料にて克く成長し、殆んどビール瓶大の大さに達したるものあるを見ても、甘蔗類の適地たることを知るに足るへし。土地の有様より云へば、甘蔗の外、更に山藍を栽培せば、如何計り多大の収益を得るや計る可らざるものあらんとす。尚を進んて内部の周囲に樟木を栽植せば、是亦た、数十年の後には、更に莫大なる収益を挙くることを得ん。玉置氏も既に試験場内に山藍の移植を試み、尚ほ樟苗等も仕立て追々移植せんとせり。現在の樹木は蒲葵、榕樹ウスグ、ゲキツ等の外種々の雑木蒲葵の間に点々散在し、稀には良材となすへきのありと。雖も多くは悪曲短材のみ。其他藤類も多々之を見受けたりし盖し八重山及国頭辺の産を同一なるべし。玉置製糖場に於ては、砂糖荷造りに之を用ひ其籘を以て「アンビラ」包を括りたる処一見輸入糖の俵袋を見るか如き心持せり。
沖縄本島到る処、松椎木類のあらさる処なし。然るに該島に於ては更に之を見受けさりしは聊か不思議に思へり近頃米利堅松を移植し既に四五尺以上に伸びたるもの間々之あり只今の有様なれば必す克く成長すべし獣類は野羊の外、蝙蝠あるのみ。去る十八年探検の為め属官警部巡査数名派遣したるときは犬の牝牡二頭放牧せしに過きず、目下繁殖せる野羊は去る明治二十四年十月、米国商船難破に羅り救助の為め、県庁より属官警部を派遣したる当時放牧したる野羊なるへし。在島人之の云ふ処によれば、最初は手擒することを得たるも、近頃に至ては銃殺するにあらされは、容易に捕獲することを得すと云う。尚を之と同時に豚四頭鶏五羽、兎三羽を放牧し、其他松苗、コウカリ樹、ゴム樹、ユウナ、甘藷、麦類数種移植したる由なれとも、是等は少しも其形跡を見当らさりし。多分自滅したるものなるべし。野禽は鳥、鶯、目白、鵯、黒鳩(方言カラス鳩)類にして、海岸に於ては水禽二三種見受けたり、害虫類も只、ムカデ類に限れり毒蛇なし。其外には蚊及ブト類、沢山ありて、夕方に至れは在島人は夫れが為め、大に悩され、酒の香ひすれば、益々蝟集し殆んどそれが防御に因却すと、在島人之を名ケて酒虫と云ふ。海岸の阿旦密生せる部分に方言「マク蟹」多く棲息し、其大なるものは一貫目以上に到るものありと云ふ。其彩色、班点等の有様を見れば、八重山群島の産と同一なるべし。之を食したる人の談によれは其肉は普通の蟹と同一にして、味も亦た佳在島人は常■之を膳部に供し、美味として賞玩すと云ふ。
北大東島は千鳥に類する一種の水禽非常に多し之に近つけは無量数万の鳥群飛び立て天を被ふ、其光景実に夕日の残照と相映して又一大奇観たり。此鳥は了度今頃が産卵期にして、単に岩上平かなる処に卵を産み、既に之を孵化せんとする時季にて試みに毀はしてみれは最早数日を経過したるもののみ。何れも半は鳥に化せり卵は甚た大ならすと雖とも一様■白く、而して褐色の班点ありて美麗なり。此外、信天翁と略相似たる水禽は沖大東島に於て多く之を見受けたり。
魚族は殊にフカ類多しとす。甲板の上より釣を垂れて大フカ数尾、其他、方言赤メバル類も沢山之を捕獲せり。海岸汀辺に至て見れは岩隙は深く域は浅くして碧水を満し、其小潭池をなしたる部分に、種々の魚族寄生し、間には海ウナギ類も見受けたり、就中黒メバルの如きは最も多しとす。其大なるものは三四斤以上に至るものあり。我が一行が手取したるものも亦た少なからさりし。其他海参類も往々之を見受けたるが、何れも方言ゾーリゲタの■にして、下等の種類に属す汀辺岸壁の間に大小種々の蟹非常に多く寄生し、之を遂へは其混雑する状又た一奇観たり。
大東島は黒潮の流域に介在するを以て、鰹魚類の回遊少なからさるへし。海底には貝類も多かるへく海参も亦た多かるへく。フカ類も最も多しと云へば漁業の見込みなきにあらすと雖も島の周囲断崖絶壁にして、且つ波浪荒らく舟を寄すへき場所なきを如何せん。今回探検の為め出張したる糸満村の漁業者も之れに閉口し断念して帰り来れり漁業の状况以て知るべし。