キーワード検索

●渡淸道中日誌(續)

掲載年月日:1900/1/29(日) 明治33年
メディア:琉球新報社 1面 種別:記事

原文表記

●渡淸道中日誌  (續)
香港の客寓に於て   半狂生
廿五日晴 朝對岸の九龍に渡る船は■船とも稱すへき小蒸滊船にして凡そ三十分毎に往來をなす此地香港島と共に■讓されたる大陸の一隅にして英國は本年に至り更に附近の地方を借地し以て貿易上の保護をなせり海岸一帯廣大なる倉庫を建設し道路は縱横軌道を敷くなと規模の大なる有樣は更に香港に於て商賣の繁昌を追想せしむ其他船渠あり兵營あり住宅ありて井然たる新市街は年々其の面目を改むるの觀なり暫く日本人雜貨店に立寄り十二時比歸宿す此日クリスマスなるを以て西洋人は各店業を休み盛装せる貴女紳士の相往來するを見たり
廿六日晴 此日猶休日なりと云ふ終日無事
廿七日曇 朝七時發の廣東行船に乗り■れ市中の散歩に時を消し午后五時佛山號と云ふに乗る船は二層樓にして長さ四十余間幅九間許あり底入り極めて淺く特に江内を往復するに便なる船体に製造したるもの覺ゆ上中等は共に上層にあり上等は寝室の設けあれとも中等は單に腰掛及ひ椅子を備へたるのみにして乗客雜沓各々椅子を取るに先後を争ふの狀態なり行こと數哩にして珠江の河口に入り暫くして船の進行を中止す即ち是れ税關の都合に依り夜半の着■を避くるか爲めなりと云ふ椅子に據りて眠りに就けり何時の間にか船は再ひ運轉を始めたり
廿八日曇 空漸く明け離れたる頃廣東の居留地なる沙面の右岸に着船す元來此地には一軒の日本旅舘なくあやしげなる二軒の珈琲店あるのみなれは己を得ず之を尋ねたるに都合ありとて孰も宿泊を諾せす即ち案内を頼みて東亞同文會を訪ふ幸ひ香港に於て相識となれる同會の派遣員内田長次氏其他諸氏の懇待を受るを得て一行四人の滞宿を許されたり朝食を終り内田氏を■道者として華林寺の五百羅漢、城内の五層樓、双門の漏刻等を見双門底、十八甫なとの繁華なる町を過て歸る晩沙面に散歩し長谷川雄大郎氏を訪ふ氏は故新尾精一派の人にして目下北京政府の直轄に係る同文舘の日本語學教師たり在留日本人に重望を有し兼て土地の事情に精しと云ふ雜談時を移して歸る

現代仮名遣い表記

●渡清道中日誌  (続)
香港の客寓に於て   半狂生
二十五日晴 朝、対岸の九竜に渡る。船は■船とも称すべき小蒸汽船にして、凡そ三十分毎に往来をなす。此地、香港島と共に■譲されたる大陸の一隅にして、英国は本年に至り更に附近の地方を借地し以て貿易上の保護をなせり。海岸一帯広大なる倉庫を建設し、道路は縦横軌道を敷くなど規模の大なる有様は、更に香港に於て商売の繁昌を追想せしむ。その他、船渠あり兵営あり住宅ありて井然たる新市街は、年々其の面目を改むるの観なり。暫く日本人雑貨店に立寄り、十二時比帰宿す。此日クリスマスなるを以て西洋人は各店業を休み、盛装せる貴女紳士の相往来するを見たり。
二十六日晴 此日なお休日なりと云う、終日無事。
二十七日曇 朝七時発の広東行船に乗り■れ市中の散歩に時を消し、午後五時仏山号と云うに乗る。船は二層楼にして長さ四十余間幅九間許あり、底入り極めて浅く特に江内を往復するに便なる船体に製造したるもの覚ゆ。上中等は共に上層にあり、上等は寝室の設けあれども中等は単に腰掛及び椅子を備えたるのみにして、乗客雑沓各々椅子を取るに先後を争うの状態なり。行こと数哩にして珠江の河口に入り、暫くして船の進行を中止す。即ちこれ税関の都合に依り夜半の着■を避くるが為めなりと云う。椅子に拠りて眠りに就けり、何時の間にか船は再び運転を始めたり。
二十八日曇 空漸く明け離れたる頃、広東の居留地なる沙面の右岸に着船す。元来、此地には一軒の日本旅館なく、あやしげなる二軒の珈琲店あるのみなれば己を得ず之を尋ねたるに、都合ありとていずれも宿泊を諾せず、即ち案内を頼みて東亜同文会を訪る。幸い香港に於て相識となれる同会の派遣員内田長次氏、その他諸氏の懇待を受るを得て一行四人の滞宿を許されたり。朝食を終り、内田氏を■道者として華林寺の五百羅漢、城内の五層楼、双門の漏刻等を見双門底、十八甫などの繁華なる町を過て帰る。晩、沙面に散歩し長谷川雄大郎氏を訪る。氏は故新尾精一派の人にして、目下北京政府の直轄に係る同文館の日本語学教師たり、在留日本人に重望を有し兼て土地の事情に精しと云う。雑談時を移して帰る。