キーワード検索

●渡淸道中日誌(續)

掲載年月日:1900/1/9(月) 明治33年
メディア:琉球新報社 1面 種別:記事

原文表記

●渡淸道中日誌  (續)
半狂生
  福州雜觀
水運 滊船の航路は凡そ上海線月に六回門厦線月に四回ありて皆外國人の事業とす惟り郵船會社の浦鹽斯徳線月に一回寄港すれとも此迄は浦鹽斯徳の終航と共に休航するの有様なり外に先頃開港したる三都間の往復滊船ありて專ら茶を運搬し猶馬尾往復の小蒸滊船七八艘あり潮の滿干によりて一日一回若くは二回の往來あり其他無數の支那形帆船ありて遠くは天津近くは臺灣に主として材木の輸送をなし滊船積載の貨物を馬尾より運搬する等に總て■船を用ゆ要するに水運の便は四通八達閩江を沂ること福州より猶五十里許の上流に達すと云ふ
旅舘 南■に一軒の日本人宿屋一軒の外國人ホテル城内に三軒の支那人客棧あるのみ日本人宿屋は室狭くして漸く七八名を容るに過きすホテルは殆と止宿者なく休業同樣の姿にして外國人の來福者は豫め知邊を求め或は各其の領事舘に世話を頼みて旅宿を定むるもの多き有樣なりと云ふ客棧は支那官吏なとの來泊所にして止宿料も安價なれとも例の不潔と不便は外國人の堪ゆる所に非すと聞く支那商人は是亦た多く其の知邊を頼りて宿泊するか如し
金融機關 涯豊銀行(香港上海バンク)の支店を始め四五ヶ所の外國銀行ありて荷爲替送金等の取扱をなし其他銀行庄なる支那人の両替店あること厦門に同し外に正金銀行の代理店あれとも目下の處は單に神戶よりの荷爲替を取扱に止ると云ふ近頃支那商人の間に日本人組合の銀行を開設するの希望あり中島氏の如き臺灣に於て勸誘する所あるを聞けとも未た其確定を見るに至らす貨幣は略厦門に異らす惟り福州鑄造の小銀貨は香港銀同様の融通をなす銅銭は一圓銀に對し凡そ千〇六十文即ち六銭の打歩ある勘定なり
貨物 當港洋海關の税額凡そ百七八十万圓にして重なる轄出入貨物は木材、茶、海產物、綿布及ひ雑貨とす外國商舘は近年茶貿易不振の爲め頗る難澁の有様なりと云ひ一体の商况余りに活潑ならす加ふるに貨幣、秤量の一定せさると支那商人の取引に氣根強きとは新たに貨物を齎し來るの商人をして進退維谷の困難に陥らしむるものあるか如く注意すべきもの一事なり惟り小賣店頭の繁昌と物價の比較的安價なることは商略進入の余地を存するの觀ありて細心事に從て先鞭を着くるものあらは亦た一輸を制するの望なきに非さるなり

現代仮名遣い表記

●渡清道中日誌  (続)
半狂生
  福州雑観
水運 汽船の航路は凡そ上海線月に六回門厦線月に四回ありて皆、外国人の事業とす。惟り郵船会社の浦塩斯徳線月に一回寄港すれども、これ迄は浦塩斯徳の終航と共に休航するの有様なり。外に先頃開港したる三都間の往復汽船ありて専ら茶を運搬し、なお馬尾往復の小蒸汽船七八艘あり。潮の満干によりて一日一回若くは二回の往来あり、その他無数の支那形帆船ありて遠くは天津近くは台湾に主として材木の輸送をなし、汽船積載の貨物を馬尾より運搬する等に総て■船を用ゆ、要するに水運の便は四通八達、閩江を沂ること福州よりなお五十里許の上流に達すと云う。
旅舘 南■に一軒の日本人宿屋、一軒の外国人ホテル、城内に三軒の支那人客桟あるのみ。日本人宿屋は室狭くして漸く七八名を容るに過ぎず、ホテルは殆ど止宿者なく休業同様の姿にして、外国人の来福者は予め知辺を求め或は各其の領事館に世話を頼みて旅宿を定むるもの多き有様なりと云う。客桟は支那官吏などの来泊所にして止宿料も安価なれども、例の不潔と不便は外国人の堪ゆる所に非ずと聞く、支那商人は是亦た多く其の知辺を頼りて宿泊するが如し。
金融機関 涯豊銀行(香港上海バンク)の支店を始め、四五ヶ所の外国銀行ありて荷為替送金等の取扱をなし、其他銀行庄なる支那人の両替店あること厦門に同じ。外に正金銀行の代理店あれども、目下の処は単に神戸よりの荷為替を取扱に止ると云う。近頃、支那商人の間に日本人組合の銀行を開設するの希望あり、中島氏の如き台湾に於て勧誘する所あるを聞けども、未だその確定を見るに至らず。貨幣は、略厦門に異らず惟り福州鋳造の小銀貨は香港銀同様の融通をなす。銅銭は、一円銀に対し凡そ千〇六十文即ち六銭の打歩ある勘定なり。
貨物 当港洋海関の税額凡そ百七八十万円にして、重なる轄出入貨物は木材、茶、海産物、綿布及び雑貨とす。外国商館は、近年茶貿易不振の為め頗る難渋の有様なりと云い一体の商况余りに活溌ならず。加えるに貨幣秤量の一定せざると支那商人の取引に気根強きとは、新たに貨物を斎し来るの商人をして進退維谷の困難に陥らしむるものあるが如く注意すべきもの一事なり。惟り小売店頭の繁昌と物価の比較的安価なることは商略進入の余地を存するの観ありて、細心事に従って先鞭を着くるものあらば、亦た一輸を制するの望なきに非ざるなり。