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●漂流談

掲載年月日:1893/10/12(木) 明治26年
メディア:九州日日新聞 2面 種別:記事

原文表記

●漂流談(承前)
午後一時頃漸く島に近くや支那の漁船幾百となく群りて頻りに綱を曵き釣を垂れ居たるが余の船の至るを見て物珍らしく思ひけん續々船を寄せ來りしかば余等は水を乞はんとて言語は通ぜされは手眞似して水ありやと問ひしに有りと答へたり依て桶を出せしに水を入れて之を致せしかは余等は數日間渇に苦み居しことなれは喜ひの餘り茶碗を以て之を汲むの暇なく三人口を揃へて桶のまま牛飲せり彼等は余等を怪みて何れより來りしかと問ふものから大風に逢ふて漂流する者なりと答へしに稱々其心を安せしが如く爭ふて余の船に入り來り食物はなきかと問ふ之れに潮にて炊きし飯を與へしに蟻の甘に集るが如く爭ふて之を食ひ尽せり之れに泡盛酒を與へしに喜ひて之を傾け其船より二尾の烏賊を携へ來りて米一俵に易へんことを求む余は之を諾せざりしに何時の間にか一俵の米を竊逃行き居たれば余は棒を以て之を打たんとせしに彼等は恐れて之を返へしたり斯る所に長居せは如何なる不幸に逢はんも知るべからずとて余等は再び船を漕ぎ出せしに遥に帆前船あるを見る支那の商船なり之れに近きて水を乞へり余は携ふる所の地圖を出して之を見るに臺灣に赴くは先つ福健に航するより良きはなし乃ち帆前船の者を呼ひ福健近きやと問ひしに是より水行十五里と云へり依て直ちに舵首を轉して福健に向ひしが夜十二時に至る迄も港を見ず風力漸く加はり航行危險なるを以て永喜と云へる海濱に槽き附け一夜を明かせり翌朝再ひ出帆して福健に向ひ三十里程も航行せしが遂に港なく十一日午後溫州府平陽縣江口と云へる所に着したれば屆書を地方の役所に出さんとて上陸せしに途にして兵士に逢ひ伴はれて役所に至る役所の名は善く記鐿せされとも船舶を保護する所なりと聞けり役員出てヽ何れより來るかと問ふ八重山より漂流して來る者と答へしに怪我はなかりしかサブ困難なりしならんと言語は通せされとも手眞似や擧動にて懇うに問ひ尋ね且つ帆檣に破損せしものあらば記して屆出よと命せられしかば之に從ひて屆出てしに米はあるか薪菜類に不足せさるかなど懇ろに尋問したる上、金二圓を與へらる余等此の地に留まる三十餘日一日順風となりしかば出帆屆を出せしに是より七日間當地に祭典あり暫く滯在して見て行くへしと役員の者頻りに引き留めしも余等は不知の旅路に淹留するを欲せず强ひて出帆せんと云ひしかは然らは帆は破れ居れり是れにては福健に達すへからずとて新に五蓙帆を造りて之を附與し且つ火瓶二本と薪五十束及ひ乾魚若干を與へ且つ曰く是より役員一名を派して汝等を保護し以て福健に達せしめんと余は固く之を辭したるが其派せらるべき役員も亦た偶ま數里の外に在りしを以て遂に派遣せられさりしも其待遇の懇篤なることは余等をして今猶ほ忘るる能はざらしむ常に聞く支那の地方官吏は貧汚にして禮を知らずと前に溫州冲に於て支那の漁夫の無禮を見ては支那人は中々人情に薄きものならんと思ひ込み居たるに今此の厚さ待遇を受け余等は支那官吏必すしも悉々禮を知らず情を解せさる者のみに非さるを悟りたり夫れより同所を發したるに途にして又た大風に逢ひ進むへからず乃ち霞浦縣の三洲港に入り檣を倒して風を防ぎ終夜寝ねずして曉に達し翌朝旭旗を船頭に樹つ一土人陸上より來り招くものあり余上陸して之れに面せしに是より五六日は大風吹き續くへし船を陸に引き上げよと手眞似して云へり余は之れに從ひ船頭と共に之を引き上げんとするも重くして上がず既にして五六十名の兵士群り來りて余等を助け遂に之を引き上くるを得たり兵士の頭とも覺しき者頻りに部下を指揮して余等の荷物を船より或る一民家に運はしめ余等をして之れに宿せしめ待遇最も懇切なりき(つヾく)

現代仮名遣い表記

●漂流談(承前)
午後一時頃漸く島に近くや支那の漁船幾百となく群りて頻りに綱を曵き釣を垂れ居たるが余の船の至るを見て物珍らしく思ひけん。続々船を寄せ来りしかば余等は水を乞はんとて、言語は通ぜされは手真似して水ありやと問ひしに有りと答へたり依て桶を出せしに水を入れて之を致せしかは余等は数日間渇に苦み居しことなれは喜ひの余り茶碗を以て之を汲むの暇なく三人口を揃へて桶のまま牛飲せり。彼等は余等を怪みて何れより来りしかと問ふものから大風に逢ふて漂流する者なりと答へしに称々其心を安せしが、如く争ふて余の船に入り来り食物はなきかと問ふ。之れに潮にて炊きし飯を与へしに蟻の甘に集るが如く争ふて之を食ひ尽せり之れに泡盛酒を与へしに喜ひて之を傾け其船より二尾の烏賊を携へ来りて米一俵に易へんことを求む余は之を諾せざりしに何時の間にか一俵の米を窃逃行き居たれば余は棒を以て之を打たんとせしに彼等は恐れて之を返へしたり斯る所に長居せは如何なる不幸に逢はんも知るべからずとて余等は再び船を漕ぎ出せしに遥に帆前船あるを見る支那の商船なり之れに近きて水を乞へり。余は携ふる所の地図を出して之を見るに台湾に赴くは先つ福健に航するより良きはなし乃ち帆前船の者を呼ひ福健近きやと問ひしに是より水行十五里と云へり依て直ちに舵首を転して福健に向ひしが夜十二時に至る迄も港を見ず風力漸く加はり航行危険なるを以て永喜と云へる海浜に槽き附け一夜を明かせり翌朝再ひ出帆して福健に向ひ三十里程も航行せしが、遂に港なく十一日午後温州府平陽県江口と云へる所に着したれば、届書を地方の役所に出さんとて上陸せしに途にして兵士に逢ひ伴はれて役所に至る役所の名は善く記鐿せされとも船舶を保護する所なりと聞けり。役員出てて何れより来るかと問ふ。八重山より漂流して来る者と答へしに怪我はなかりしかサブ困難なりしならんと言語は通せされとも手真似や挙動にて懇うに問ひ尋ね且つ帆檣に破損せしものあらば記して届出よと命せられしかば之に従ひて届出てしに米はあるか薪菜類に不足せさるかなど懇ろに尋問したる上、金二円を与へらる余等此の地に留まる三十余日一日順風となりしかば出帆届を出せしに是より七日間当地に祭典あり暫く滞在して見て行くへしと役員の者頻りに引き留めしも余等は不知の旅路に淹留するを欲せず強ひて出帆せんと云ひしかは然らは帆は破れ居れり是れにては福健に達すへからずとて新に五蓙帆を造りて之を附与し且つ火瓶二本と薪五十束及ひ乾魚若干を与へ且つ曰く是より役員一名を派して汝等を保護し以て福健に達せしめんと余は固く之を辞したるが其派せらるべき役員も亦た偶ま数里の外に在りしを以て遂に派遣せられさりしも其待遇の懇篤なることは余等をして今猶ほ忘るる能はざらしむ常に聞く支那の地方官吏は貧汚にして礼を知らずと前に温州冲に於て支那の漁夫の無礼を見ては支那人は中々人情に薄きものならんと思ひ込み居たるに今此の厚さ待遇を受け余等は、支那官吏必すしも悉々礼を知らず情を解せさる者のみに非さるを悟りたり夫れより同所を発したるに途にして又た大風に逢ひ進むへからず乃ち霞浦県の三洲港に入り檣を倒して風を防ぎ終夜寝ねずして暁に達し翌朝旭旗を船頭に樹つ一土人陸上より来り招くものあり余上陸して之れに面せしに是より五六日は大風吹き続くへし船を陸に引き上げよと手真似して云へり余は之れに従ひ船頭と共に之を引き上げんとするも重くして上がず既にして五六十名の兵士群り来りて余等を助け遂に之を引き上くるを得たり兵士の頭とも覚しき者頻りに部下を指揮して余等の荷物を船より或る一民家に運はしめ余等をして之れに宿せしめ待遇最も懇切なりき。(つづく)