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宮古島
原文表記
宮古島
吾曹ハ上海メルクリー新聞の甚だ東海の地理と知らざるがまにまに放■の妄斷を下すに驚かざるを得ざるなり茲に本月五日の談新聞を讀むに左の一項を載せたり即ち千八百八十五年九月五日刊行上海メルクリー新聞なり
朝鮮より報道する所に據れば日本國旗とMajaakasima 群島并に他の諸島に樹てたり此諸島ハ臺灣の東岸にありて支那に屬するものなり此事果して實說にてあらバ驚き入りたる次第なり北京ハ如何なる手段を取るべき乎駁議と爲すなるべしと思ハる抑もマジ―カシマ群島ハ臺灣の北東方向より日本島の極南に連なりたる諸島の極西端に在りて北緯廿二度より廿五度六分東經百廿二度五十五分より同卅分の間に位する諸島なり
彼の新聞記者ハ何に驚入りたる乎吾曹ハ其の妄說と以て驚入りたる次第なりと云ふ者なり先づマジーカシマ群島とハ何島なるか其の指示したる地位に據りて案すれバ即ち我が日本帝國の極西南に在る宮古島諸島と云へること判然なり(宮古島を英國出版の地圖にハ或ハマヤコシマと訛音を下したるもあれバ彼の新聞ハ之を轉記したるものと思ハる)此の宮古諸島ハ實に日本の版圖なり清國の屬地に非ざるなり日本の版圖内に日本の國旗を樹る百千旈に及ぶも只我が欲する所に任す北京に何の關■あらんや而して此の事實ハ盖し工部省より該群島に派遣せられたる官員が國旗を樹てたるを見て外人が之を傳聞せるに根由するものなるべし
琉球案件ハ我國と清國との間に於て未了の問題にして目下ハ談判中止に係るものなり初の程ハ清國に於ても琉球處分に關して頻に議論を容れたる趣意もありけるが先年米國故大統領グラント大將東遊の節に清國の望に依て調停の議を忠告せられたれバ我國に於てハ固より爭を清國に好むに非ざれバ其の忠告に基き日本ハ清國の榮譽を全くするが爲に宮古二島と清國に割譲して東海の咽喉を分領するの利を得せしむべし其の報酬として清國ハ日清條約を改正して最惠國の約を立て之に均露せしむべしと北京に於て總理衛門と我が全權公使との間に談判を極め其の草業を議定し去ら■愈愈日を期して調印すべしと云ふ塲合に臨み總理衛門ハ俄に其議を變じ條約の事ハ承諾せざるにハ非ざれどの通商大臣に諮問しべき議たるを以て之を後にして先づ琉球案件と定むべしと望みたるに付き我が全權公使ハ之を肯せず遂に談判を其儘に中止したり是れ實に明治十四年の初に起れる事實なりとす但し右の談判ハ今日まで尚ほ中止に係るを以て决して之と廢票したるにハ非ざると公衆の普く知る所たり
其の如く宮古島の日本の版圖に在ることハ地理及び歷史に徹する迄も無く右の談判に於て太だ明瞭なれバ一點の爭ふべき所なし左れバ此の日本の宮古島に日本の旗を樹てたりとて何の驚く事やあるべき北京政府に於て何の駁議を他國の内事に下す事やあるべき其毫も啄と容るるの理なきハ猶ほ清國の黄旗を臺灣島に建る千旈萬旈の多きに至るとも日本より之を議するの理なきに同じきのみ然ると上海メルクリー記者ハ何に驚きて此事を斯くも喋■したる乎若し歐米遠隔の地に在りて東海の地理をも知らず東洋の事情とも聞かざる新聞紙にして此說を爲さバ猶ほ恕すべき情もあるべけれ現に上海に在りて此の宮古島割譲の件に付き曽て日清兩國の間に於て如何なる談判を爲したるかと詳知しながら却て今日に此の妄說と下すと見てハ吾曹ハ實に其の事情にも暗く地理にも疎きを驚くに外ならざるなり
宮古島の名を轉訛してマヤコシマ若くハマジーカシマと呼ふに係らずシマとハ即ち日本語にて島の■なり去る地名の支那にあるう無きうと考へても其の日本の版圖たるを知るに容易なり况や談島の古来日本の版圖たるハ歷史上の事實たるに於てをや吾曹曽て沖繩南島名義考南島諸島朝貢考爲朝入琉球考の三編と我紙上に載せて以て當時外國新聞の妄說と駁したる事ありき明治十三年一月廿八日より同卅一日に至る東京日日新聞を參觀あるべし彼の記者幸に尋て一讀あれバ彼が一個の妄斷にて支那の屬島なりと思ひて驚きたる宮古島ハ即ち沖繩南島たることを明細に詳知することと得べきなり吾曹先づ彼の記者の爲に其の地理を略說せん沖繩群島を西南に距り二群島あり其一を宮古島とし其一を八重山群島とす而して輿那國島ハ更に其南に在りて臺灣に近し之を我國版圖の西南極端なりとす八重山群島の中にて重立たるハ石垣■入表の二島なり續日本紀文武天皇三年七月辛未多褹、夜久、奄美、度感等人從朝宰来貢方物云■とあり又靈龜元年正月南島、夜久、奄美、度感、信覺、球美等米朝とあり此の奄美ハ今の大島 曾て小琉球と云へり 度感は徳の嶋、信覺ハ即ち今の石垣、球美ハ即ち姑米山の事なり南島志にハ石垣入表二島之地、總稱以爲八重山、國史稱信覺、石垣乃是信覺之轉耳と見え中山傳信錄にハ八重山土音彛師加紀と見えたれバ信覺と云ひ石垣と云ひ彛師加紀と云へる皆是れ同音たるや明なり是の如く歷史上の事實と云ひ地理上の事實と云ひ又現に營轄上の事實に於て此の群島の日本版圖たる世界中誰ありて之を爭ふものも無きに■り上海メルクリー新聞記者のみ之を清國の屬島なりと妄斷して其說をたてたるハ豈に其の不學に座するの責なきを得んや依て爲に其妄を辨ず
現代仮名遣い表記
宮古島
吾曹ハ上海メルクリー新聞の甚だ東海の地理と知らざるがまにまに放■の妄断を下すに驚かざるを得ざるなり。ここに本月五日の談新聞を読むに左の一項を載せたり。即ち千八百八十五年九月五日刊行上海メルクリー新聞なり
朝鮮より報道する所によれば日本国旗とMajaakasima 群島并に他の諸島に樹てたりこの諸島は台湾の東岸にありて支那に属するものなり。この事果して実説にてあらば驚き入りたる次第なり。北京は如何なる手段を取るべき乎駁議と為すなるべしと思はる抑もマジーカシマ群島は台湾の北東方向より日本島の極南に連なりたる諸島の極西端に在りて北緯二十二度より二十五度六分東経百二十二度五十五分より同三十分の間に位する諸島なり
彼の新聞記者は何に驚入りたる乎吾曹はその妄説と以て驚入りたる次第なりと云う者なり。先づマジーカシマ群島とは何島なるか、その指示したる地位によりて案ずれば即ち我が日本帝国の極西南に在る宮古島諸島と云へること判然なり(宮古島を英国出版の地図には或はマヤコシマと訛音を下したるもあれば彼の新聞は之を転記したるものと思はる)この宮古諸島は実に日本の版図なり清国の属地に非ざるなり。日本の版図内に日本の国旗を樹る百千旈に及ぶも只我が欲する所に任す北京に何の関■あらんや。しかしてこの事実は盖し工部省より該群島に派遣せられたる官員が国旗を樹てたるを見て外人がこれを伝聞せるに根由するものなるべし。
琉球案件は我国と清国との間に於て未了の問題にして目下は談判中止に係るものなり初の程は清国に於ても琉球処分に関して頻に議論を容れたる趣意もありけるが先年米国故大統領グラント大将東遊の節に清国の望に依て調停の議を忠告せられたれば我国に於ては固より争を清国に好むに非ざればその忠告に基き日本は清国の栄誉を全くするが為に宮古二島と清国に割譲して東海の咽喉を分領するの利を得せしむべし。その報酬として清国は日清条約を改正して最恵国の約を立てこれに均露せしむべしと北京に於て総理衛門と我が全権公使との間に談判を極めその草業を議定し去ら■愈愈日を期して調印すべしと云う場合に臨み総理衛門は俄にその議を変じ条約の事は承諾せざるには非ざれどの通商大臣に諮問しべき議たるを以て、これを後にして先づ琉球案件と定むべしと望みたるに付き我が全権公使はこれを肯せず遂に談判をそのままに中止したりこれ実に明治十四年の初に起れる事実なりとす。但し右の談判は今日まで尚中止に係るを以て決してこれと廃票したるには非ざると公衆の普く知る所たり。
その如く宮古島の日本の版図に在ることは地理及び歴史に徹する迄も無く、右の談判に於て太だ明瞭なれば一点の争うべき所なしされば、この日本の宮古島に日本の旗を樹てたりとて何の驚く事やあるべき北京政府に於て何の駁議を他国の内事に下す事やあるべきその毫も啄と容るるの理なきは猶ほ清国の黄旗を台湾島に建る千旈万旈の多きに至るとも日本よりこれを議するの理なきに同じきのみ然ると上海メルクリー記者は何に驚きてこの事を斯くも喋■したる乎若し欧米遠隔の地に在りて東海の地理をも知らず東洋の事情とも聞かざる新聞紙にしてこの説を為さば猶ほ恕すべき情もあるべけれ現に上海に在りて此の宮古島割譲の件に付き曽て日清両国の間に於て如何なる談判を為したるかと詳知しながら却て今日にこの妄説と下すと見ては吾曹は実にその事情にも暗く地理にも疎きを驚くに外ならざるなり。
宮古島の名を転訛してマヤコシマ若くは、マジーカシマと呼ぶに係らずシマとは即ち日本語にて島の■なり、去る地名の支那にあるう無きうと考へても、その日本の版図たるを知るに容易なり況や談島の古来日本の版図たるは、歴史上の事実たるに於てをや吾曹曽て沖縄南島名義考、南島諸島朝貢考、為朝入琉球考の三編と我紙上に載せて以て当時外国新聞の妄説と駁したる事ありき明治十三年一月二十八日より同三十一日に至る東京日日新聞を参観あるべし。彼の記者幸に尋て一読あれば彼が一個の妄断にて支那の属島なりと思いて驚きたる。宮古島は即ち沖縄南島たることを明細に詳知することと得べきなり。吾曹先づ彼の記者の為にその地理を略説せん、沖縄群島を西南に距り二群島ありその一を宮古島とし、その一を八重山群島とす。しかして与那国島は更にその南に在りて台湾に近し、これを我国版図の西南極端なりとす。八重山群島の中にて重立たるは石垣■入表の二島なり。続日本紀文武天皇三年七月辛未多褹、夜久、奄美、度感等人従朝宰来貢方物云■とあり又、霊亀元年正月南島奄美、夜久、度感、信覚、球美等米朝とありこの奄美は今の大島 曽て小琉球と云へり 度感は徳の嶋、信覚は即ち今の石垣、球美は即ち姑米山の事なり、南島志には石垣入表二島之地、総称以為八重山、国史称信覚、石垣乃是信覚之転耳と見え、中山伝信錄には八重山土音彛師加紀と見えたれば信覚と云い石垣と云い彛師加紀と云へる。皆これ同音たるや明なりこれの如く歴史上の事実と云い地理上の事実と云い又現に営轄上の事実に於てこの群島の日本版図たる世界中誰ありてこれを争ふものも無きに■り上海メルクリー新聞記者のみこれを清国の属島なりと妄断してその説をたてたるは、豈にその不学に座するの責なきを得んや依て為に妄を弁ず。